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終局に至る告白(その1、1987~1995年) [TRPG・その他]

1990年の本格的な開始以来、今年でTRPGを趣味とした年月がちょうど20年になった。
色々と良い機会なので、一年ごとの楽しかったり楽しくなかったりする思い出を書いていこうと思う。
で、最後にOOしようと思う。


ぽ村的なTRPG年表を晒すと

1987~1990年 黎明期
1990~1993年 グループ結成・拡大期(前期)
1993~1995年 グループ拡大期(後期)
(↑この記事ではココまで扱ってます)
(↓ココ以降はhttp://pomura.blog.so-net.ne.jp/2011-03-09にて。)
1995~1997年 グループ縮小期(前期)
1997~2000年 グループ縮小期(後期)
2000~2003年 グループ末期(前期)
2003~2005年 中断期
2005~2008年 グループ末期(後期)
2008~2010年 現在  

で、誰も望んでないけど本格的に遊びだした1990年より前の黎明期、1987年から語っていこう。

ちなみに、この記事は基本的に
チラシ裏に書き込めば良いような内容だ。
「真実かどうかは知らないが、 ぽ村 はこう覚えていて、こう解釈している。」
というものだから、内容も正確とは言えないかも知れない。

あと、先に断っておくと和気藹々なのは1994年まで。
グループ内に大きなトラブルが発生した1995年以降、思い出が多分呪詛ががかってくる。

なぜそれでも続けたか、それでも楽しかった思い出も含めて書いていこうと思う。

個人を特定できないように名前は挙げないし、挙げてもアルファベットで年が改まるごとにシャッフルする。
…それでも元グループメンバーなら解ると思うが。

記事のコメントやリアルで「あのAってのは誰だ?orXXXか?」という質問も一切回答しない。

記憶違いがあったら指摘して欲しい。
記事の同時期に、その指摘コメントを組み込むことで対処しようと思う。

できれば最後(「現在」)まで読んでもらって
「ああ、ぽ村はこんなことがあって楽しくて&楽しくなくて、それでOOするんだなぁ」
と思ってもらいたい。
そして出来れば引き止めないで欲しい。

もっかい言うが
この記事はチラ裏だ。

そして、長々と続いたTRPGネタはこれでお終い。
まだ終わってないTRPG系記事も多いけど、そっちは続くので引き続きご愛顧下さい。

規約
・一年ごとの思い出を書き足していきます。できれば今年度中に完結したいです。
・他のTPRG板と同じく、ちょくちょく更新&コメントで告知しますので気になる人は続けて見て行ってください。
・質問はコメントまで。CMは即デリート
・個人名やOOの内容についての質問は答えられません。特にOOの内容は記事の最後に挙げます。
1987年

ファミコンで「ドラクエ」をはじめとするRPG達が出てきていた。
総理大臣が中曽根から竹下に代わった。


その年ぽ村は小学5年生になった。
そんな昔から話をはじめようと思う。


当時、 ぽ村 の家ではマンガの購入もファミコンは禁止だった。
マンガは所持してるのがバレると没収後廃棄。
特にファミコンは購入はおろか、他人の家で遊ぶことさえ禁止されていた。
これは当時の小学生として会話のネタの大部分を奪われる=仲間はずれにされることに等しかった。

家では遊べなくても、こっそり友人の家で見たり遊ばせて貰ったりというパターンが多かった。
しかし、それまでほぼ毎日ファミコンで遊ばせて貰っていた近所の2歳年上の友人は中学に上がるや、 ぽ村 含め近所の小学生達と遊ばなくなってしまっていた。

他にも(つか、大半の友人は)ファミコンを所持していた友人はいたが、それでも空気読むとそう頻繁に遊びに行くわけにはいかず、でもゲームの情報は仕入れておきたい。
そこでぽ村が目を付けたのが攻略本やゲームコミック・ゲームブックだった。

攻略本は今でもある(急速に衰退してるが)が、ゲームブックはほぼ全滅したに等しい分野なので解説しておくと、小説のように読み進んで行くと、選択肢が出る。
1「敵が出た。どうする?」
戦う→211へ
逃げる→43へ
選択した数字へ飛ぶ。
そして選択した行動の続きが「読める」のだ。
コンパクトな一冊の本のなかに、ゲーム丸々一つ分入ってるので何だか得した気分になった記憶がある。
ちなみに当時盛んだったのは双葉社のゲームブック。
双葉社はファミコンソフトのタイトルを数多くゲームブック化し、質はとにかく、量的にはゲームブックの中で一番だった。

「ドラゴンクエストⅡ(上下巻)」の即死っぷり(今思うとFC版を忠実に表していたと思う)や、
「がんばれ五右衛門」の本筋とは関係ないっぷり、
「少年魔術師インディ」の傑作っぷりと、実際に作品ごとの当たりハズレが大きいところもファミコンっぽかった。

そんななかその年の初め…小学校4年の終わりごろだったと思う。
当時結構繁盛していた「学研の学習・学研の科学」の(多分学習の方)の付録に「冒険ボードゲーム」というものが入っていた。

見ると当時としては珍しい、それぞれ番号が振られた六角へクスの敷き詰められた用紙に、文字がいっぱいの数ページの紙…
挿絵の剣と魔法のファンタジーっぽい絵に惹かれたものの、
最初はめんどくさくてほぼ放置していた。

しかし、秋に入ろうかと言う時期だったと思う。
親御にゲームブックの隠し場所が知られ、無断で廃棄され、ほぼ全滅した。
(ぽ村の家ではコレが数年に一度あり、その後ビックリマン・ミニ四駆・ライトノベルといったものを無断で廃棄される件が起こる)

わずかながらにあったお小遣いも、それを理由に支給されなくなり、ぽ村には家で遊ぶ・ヒマを潰すという選択肢がほぼ無くなった。

そこで年初めにあったあの付録を思い出した。
少しでも暇つぶしになればと
半年前の学研の本を本棚から探して、
今度はちゃんとルール把握のために説明を読む

「六角へクスは一歩づつ動ける。「44」の数字が振られた場所に行ったら別の用紙の「44」を読む」
「敵がいたら体力の比べあい。体力が大きい方が勝ち体力が1ポイント上昇。負けたら体力が3ポイント減って、移動前のマスに戻る。体力が0になったらゲームオーバー。」
「体力は戦闘の他イベントでも上昇する。最大値は20」
「障害物で自由に往来できないラインがある」他。
これがほぼ全てのルール。

遊んでみた。
ゲーム性はかなり低い。
体力の上昇するマスを往復するだけであっさり最大値20を叩き、イベントの罠にかからない限り無敵状態になる。

しかし、六角へクスには何と裏面があった。
裏面はちょっとしたダンジョンになっていて、各部屋にワープする仕組みだ。
表の地上面と裏の地下面で一つのゲームということだ。
裏表のヘックス総数は160程度。

これは意外で、かつ量的なお得感があった。

何度か遊んでみて、ぽ村は考えた。

このボードだけを用いて、同じようなゲームが自分にも作れないだろうか…?
つまり160のイベントが用意出きれば、一つのゲームとして成立できるのだ。
で、実際深いことは考えずに制作を開始してみた。
まさしく試行錯誤の制作。

体力の比べあいはゲーム性が低い。
はじめはゲームブックのように勝手に戦闘を展開させ、
その過程で生命力が0になったらゲームオーバーにしてみたが、やった人の反応がイマイチ良くない。
ゲームしている感覚が無いのだろう。
やたら文章も書かなければならないので、作る負担も重い。

ルール回し中心でコンパクトにするべきだ。
アナログなゲーム判定法…??
TVゲームRPGのように、
プレイヤー側の攻撃力・防御力、モンスター側の攻撃力・防御力のデータを比べあって、交互に殴るのはどうだろう?
モンスターもデータだけ掲載すれば、制作もぐっと楽になる。
絵があったら面白い。クラスの絵が上手いヤツに描かせて…
バランスを考えて…

だんだんこのゲームのルールを煮詰める&物語を作る行為に夢中になっていった。

夢中になれる利点があった。
お金がかからない
見つかっても「学研の付録!」って言えば、親もさほど文句は言わない。
万一処分されても、六角へクスの地図さえ残っていれば、また自作できる。
TVゲームのように学校に持っていっても多分学校の先生には取り上げられない。
サイコロだってお道具箱に入ってるのを使えば全く問題ない。
1人でも友人達とでも遊べる。
融通の利かないTVゲームと違って、オリジナル武器やオリジナル魔法にオリジナルルールと、やりたいことが大幅に詰め込めた。

しかし、当時大量の紙に恵まれなかった ぽ村 は、習字の和紙に160以上のイベントを記入。
破れやすくて、消しゴムが使えずに随分汚いイベント表だったと覚えている。

主人公達はどうしよう??
と、思っていると、そこに「ドラゴンクエストⅢ」の情報が来た。
当時としては革新的な「多彩な職業」がある。(ウィーザードリィには既にあったが、RPGが一般には新ジャンルすぎる当時、小学生がウィーザードリィを知るわけが無かった)
ソレをそのままコンバートすることにした。

この自作のRPG風ボードゲーム結構周囲に受けた。
TVゲーム持ってる友人達も、無限にTVゲームは出来ないし学校では遊べない。
そんな「ゲームが出来ない間」を埋めるモノが欲しかったのだ。

とりあえず、近所や学校のクラスメイト達でアレやコレやとアイディアや知識を出し合って、テストプレイを繰り返す…

今考えてみたら、TRPGのルールやシナリオを考えてることとほぼ同じ作業だった。

それだけで、1987年は過ぎていった。

1988年

ぽ村 が小学6年生になった。
バブルが本格化しだして、凄い景気の良いニュースがガンガン報道。
「…ヲレたちの国、スゴクね?&やりすぎでね?」と思うようになった。
ドラクエ3が発売され、周囲がかなり過熱しすぎだった。

そんな年。

ぽ村の学年ではドラクエ・SDガンダム(逆シャアの影響)・ミニ四駆が大流行しはじめた。
このうち、どれか一つでもマークできていなければ、友人扱いされないというファシズム的風潮の中。
それらに何とか付いていった(金がかかりそうなのは妹を誘って親御の財布からくすね(ry…もちろん後で発覚し四回に分けて殺される。まじすいません)。

そして一方で「学校でもドラクエ(っぽいRPG)がやりたい」というニーズを拾う形で、 ぽ村 は前年からのボードゲームの「新作(笑)」を黙々と作り、その頃から発生した45分の昼休みや他の空き時間を活用してクラスメイト達と遊んでいた。
しかし前年は上手くいった「みんなで作っていこう」という方針は
メンバー達がクラス替えにより疎遠になったり
他の趣味に傾倒したり
作業のモチベーションが続かない(特にイラスト係)等
脱落者が相次いだ。
結果

制作者はシナリオ部分のみの ぽ村 1人が残った。

しかし遊ぶ側の需要はある。
だから1人で黙々とボードゲームのシナリオを書き続けた。
その年の前半だけで3作作った記憶がある。
後に「GMなんて貧乏くじ、好き好んでやるヤツの気が知れん」と、言われることになるが
この頃から、プレイヤーの為にある種の犠牲を引き受ける土壌が出来ていたのかもしれない。

で、肝心のゲームの方だが、やはり試行錯誤が続いていた。
一歩一歩コマを進め、そこで起こったイベント(主に戦闘)をダイスロールも無くデータのやり取り「だけ」でこなし…
と、やはり飽きが早かったらしい。
大抵プレイヤーは1人~3人だった(机のスペース的にそれが限界)が、
プレイヤーの1人が「一歩一歩進むのがイヤだ。サイコロ振って、出た数だけ進めるほうがいい」
と主張してきた。
さっそくその方法で遊んでみたが、結構バランスを考えて作ったボード上でそういうことをやるとどうなるか?

バランスが悪くなって、強い敵が出てきて全滅…というパターンも多く出た。
解りやすく言うと、大雑把になった。

しかしそれでも、提案したプレイヤーは「スリルがあるw」と喜んでいる。
「ああ、自分の意見が通ると面白いんだな…」
そう思った ぽ村 は、
「ドラクエ3には新しい魔法・ギガデインってのがあるから入れてくれ。ダメージは敵全員に200ポイント」
「賢者っていう、凄い職業が見つかったら追加してくれ。魔法使いと僧侶の魔法に、武闘家くらい戦える。」
といったプレイヤーからの情報やら提案をガンガン入れた。
「提案したら大抵通る」のが受けて、昼休み中、サッカーの出来ない雨の日や自習の時は結構盛況だった
しかし結果、
職業は1人づつで7人いる大所帯なパーティとなり
それを全員一つの戦闘に参加させ、データをやりとりし…
と、非常に煩雑なゲームなってしまった。

何か打開策を考えているうち、秋ごろにはそのRPG風ボードゲーム制作を(データのやり取りがメインである以上、同じシナリオを何回もやれば良い為)しばらく封印。
ミニ四駆の改造やSDガンダム・ビックリマン収集等に情熱をそそぎ始めた。
学年後半はもともと歴史が好きだったので光栄っぽい国取りボードゲームを作り始め、そのルールをずっと思考して…
煮詰まった時に、またRPG風ボードゲームのシナリオを作った。
それが「戦闘にサイコロを導入した」最初の作品になった。
年末から作り始めたソレが翌年明けから結構「受ける」事になる

それでその年は暮れていった。

続く


1989年

世の中バブルで好景気が大変なことになっていた。
消費税(最初は3%)が導入された。
この年 ぽ村 は中学生になった。
ゲームボーイが出て、かなり普及しまくった。

そんな年。

小学校卒業も間際の1・2月頃だったと思う。
「今やってるボードゲームの戦闘にサイコロの振り合いを入れたらどうだろう??」
と思っていた ぽ村 は、戦闘はキャラクターごとにサイコロを1個づつ振り合い、高い方が低い方を一方的に攻撃。
相手が出目「1」でコチラが出目「6」の時は「かいしん」あるいは「つうこん」(つまりはクリティカルヒットが発生する)。
というシステムを考え出す。

で、しばらく止まっていたボードゲーム作りを再開。
戦闘は敵データを入れるだけ。
あとは今見ると「いくらなんでも…」な物語を添えて完成させた。
かなり手間が軽く済んだ記憶がある。

「こんな簡単に出来たものが面白いだろうか??」
と半信半疑でクラスメイト相手に遊んだところ、プレイの順番待ちが出るほど受けた。
最大4人が同時進行で別々に遊んでた記憶がある。

ぽ村 が目を放した隙にプレイヤーが1人で遊んでたこともあった(で、「字が汚い」と罵られた)
作るのも簡単だったので、「この方式をもっと早く完成させれれば…」と思った。

それを遊び倒しながら、小学校卒業。
中学生になった。

中学生になって変わったのは学校だけではない。
制服だけでもない。
趣味やセンスや言葉遣いに、みんながちょっとだけ背伸びを始めた

制服つけるようになった学校。
さすがに学校にミニ四駆持ってくるヤツはいなくなった。
あれほど熱心に集めていたビックリマン・SDガンダムも話題に上げるのさえなんだかタブーっぽかった。
雑誌もコロコロやボンボンの話題は壊滅した。
近所の年上の友人を見るにファミコンもやらなくなるのかな?
と思っていたが、それはOKだったみたいだ。
むしろPCエンジンCDROMROMやら、新製品ゲームボーイ等、小学生では手の届かないゲーム機を持つことがステイタスとされていた。

しかし、学校はピリピリしていた。
廊下で見かけた近所の2コ上の友人にも声がかけられないくらい、小学校時代とは何もかもが違った。


…これはボードゲームなんていってらんねぇ…
母校出身者の少ないクラスに割り当てられた ぽ村 はなんとなくそう思った。


親父の「部活動は中学校生の義務」というウソに騙くらかされて、サッカー部に入った。
学年の中ごろには担任の「生徒会立候補者を1クラスから2人出さなきゃいかん」というこれまたウソに騙くらかされて、会計に立候補するも落選した。
でも「会計補佐」という役職を与えられて、生徒会室で仕事もするようになった。

生徒会役員になったら何となくバカじゃイカンし、気になる娘もいたので勉学に励み
成績が小学校時代の「中の下」から「中の上」くらいまで上がった。
環境の変化に違和感はあったが、ソレを楽しめた。
少しは勉強できるようになると、周囲の目も変わったのが実感できて毎日の学校が楽しくてしょうがなかった。


そんなある日。
部活動していると、生徒会室に呼び出された。
急な仕事があるらしい。
大量に印刷された資料のの並べ替えなんだが、それが終わり
空き時間。
数人の先輩方がテーブルに集まって座り、1人一枚づつ配られた用紙を前に、ワイワイ談笑しながら見慣れないサイコロ(多分12面体)を振ってゲーム(後から知ったが「ロードス島戦記RPG(初代)」だった)をしている。

…なんだか小学校でやってたボードゲームとスタイルが似ているので、興味があった。
まだ馴染みの薄い人々だったので、遠巻きに眺めてるだけだった。
「似たゲーム(ボードエームのことね)、ヲレもやってたよー…」
とアプローチしたが、軽くスルーされた。

TRPGを初めて目撃したのはこの時だった。

しかし、部活もあって生徒会室はあまり足を運ばないしプライベートの交友関係は相変わらずファミコンが中心。
そこにPCエンジンを持つ友人が入ってきたくらいだった。
ゲームボーイユーザー化した友人もいたし、ドラクエはバカなAI積んだ「4」が。
前年に出たFF2そして当年挟んで翌年にはFF3が出て、TVゲームRPG好き達を狂喜させていた。

そんな「画面があって音楽もあって進化が止まらない」TVゲームRPGに心酔して、自分で作るボードゲーム
そして生徒会室で遊ばれていた地味なゲーム(TRPG)に気にはなりつつも、視界に入れようとはしなかった。
翌年、学年が変わるまでは。

…ちなみに意外に思われた方も多いであろうサッカー部だが。
ぽ村 は平日、結構真面目に通い、(出席率が良いという理由で)レギュラーっぽいポジションになれた。

しかし、休日まで拘束される活動や、
二学期中盤
出席率悪いメンバーに割と良い背番号が当たり(ぽ村 は「34」だった何ソレ;)。
しかもその出席率悪いメンバーの方がサッカー自体が上手くて
まぁなんだ。
努力するのがバカらしくなり、3学期頃から部活動から遠のき
翌年(中学校2年生)の2学期には、ほぼ幽霊部員になっていた。

つづく

1990年(前)

この年バブルが崩壊したらしい(当時実感は無かった)
地元ではヤクザが抗争はじめて、警官も民間人も含めて何人か死んだ。
ぽ村 は中学校2年生になる年。


新年早々、小学校時代から(遊ばないものの)後生大事に持っていたミニ四駆が親御に無断で廃棄され、
収集していたビックリマン・SDガンダムのガシャポンコレクションの処分を命じられた。
理由は小遣いネコババしたことと、小学校時代にくすねた金がそういうのに消えていたことが芋づる式に露見したからだった。

これで金を使う趣味は壊滅した。

中学生になったし、コレはコレで仕方が無いかな…と、思いつつ
「金ナシで何を趣味にしたものか…」
と真剣になやみはじめる。
サッカーも何だか真面目なだけではダメっぽい。
TVゲームは禁じられてるし金がかかるので論外。

この頃から、 ぽ村 は休日に家を空けるようになっていった。

学年が変わった。
中学校2年生。
クラス替えで、小学校時代つるんでたメンバーと同じクラスになった。
とても楽しい学年になるような予感がしたし、ソレが的中することになる。

美術の時間は当時二時間続けてあった。
みんな各々創作すればおk。
授業はワイワイとほとんど自習時間だった。
課題は超スピードで終わらせると暇になる。
かと言って、さすがに流行のゲームボーイを持ち込むのはリスクが高かった。

「 ぽ村 、あの昔やってたボードゲームある?」
暇してた友人にそう尋ねられ、それがきっかけでボードゲームを再開することになった。
小学校最後に作った2作目は、その年にやっても人気があった。
で、作るのも比較的簡単なので3作目4作目と続き、この学年中(2学期終了まで)に計8作も作る事になる。

3作目が出来た日、生徒会室で「今日ボードゲームの3作目が完成した。みんな、祝ってくれ」とかこの口が言ってしまった。
スゴイ微妙な空気が流れたのを覚えている。
そしてスルーされた;
生徒会室では役員の先輩達数人が毎日…というより、暇さえあれば集まっていたようだった。
外とは隔絶され、2階にあるとこから役員以外から覗かれこともなく
さらには備品のワープロやCDラジカセを使って好き放題。
しかもエレキギターもこっそり持ち込み
「ザ・ファイブスター・ストーリーズ」「コンプティーク」「ニュータイプ」といった一般にはあまり馴染みの無いマンガや雑誌も数冊あった。

そして、あのサイコロ使った遊びをみんな一緒に高確率でやっている。

どんな遊びなのかちょっと興味あったし、あの見慣れない多面体サイコロにも興味があったが
やはり遊んでる先輩方に話しかけるのがちょっと気が引けたのと
とりあえずボードゲームがクラスで好評だった(実際需要があったから8作も作った)ので、そのまま6月くらいまではスルーしていた。

つづく

1990年(中) 

それは5月か6月の話だったと思う。
生徒会室で用を終え、まったりしてると、
一つ上の先輩(当時中3になる)の1人が「TRPGしない?」と誘ってきた。
…ヒマだし断る理由も無い。
何より変わったサイコロ(D12・D10)に触れてみたかったので、おkして遊ぶことにした。

しかし、他の先輩方はやる様子が無い。
色々都合の悪さやら気が乗らなかったようだ。
仕方なく、その日はルールがロードス島戦記(リプレイ第一巻の後ろのデータ)。
先輩がGM・ぽ村1人で5・6人分のPCを動かす…というプレイ形式で遊ぶことになった。

「ウォーリアー」「ソーサラー」…
聞きなれない職業にwktkしながら、データのみを書き込む一枚の用紙(GMのPC管理用の用紙。キャラクターシートじゃないところがちょっとヒドイ)にキャラクター達6人を作り上げてゆく。

内容はオーソドックスにダンジョン攻略なんだが、最初のゴブリン(わずか3匹)戦だけで随分時間がかかり結構な損害を受けた。
そして狭い通路でローブを着けた敵戦士(多分性能はダークエルフ)と一対一の戦いを強いられ、5(6?)タテを喰らって全滅した。

感想は…最悪だった…経験者となった今でも、この方法は不味いと思う。
ルールもほとんど理解できていないPL1人に、初級~上級者向けのPC(本来1人のPLに1人のPC)を5・6人分押し付けたのだ。
能力も戦略も把握出来ない。
そして敵にボコボコにされる。
コレが楽しいはずが無い。

しかし
今考えてみると当時GMをやってくれた先輩もまだ初心者(前のGMは ぽ村 の2つ上で、もう卒業して居なかった)。
ひょっとしたら、 ぽ村 という新規メンバー獲得とともに、己のGM経験を積むためにやったのかもしれない。

全滅したPC達を前に、 ぽ村 は「戦闘に爽快感が無い。ヲレの作ったボードゲームが面白い。」という趣旨の発言をしたところ、
「じゃあ ぽ村 のボードゲームをやろう」ということになった。

で、例の六角へクスのマップを取り出して遊び始める…
がしばらくして、先輩が奇妙な行動を取り始めた。

通行出来ないルートを通ると言い出したのだ。

ぽ村「あ、そこ通れないです」
先輩「?そもそも何でココは通行出来ないの?」
ぽ村「それは…山とか、森とかあるから??」
先輩「なら登ってくし、掻き分けていくよ。その方が近道だ。」
ぽ村「そ、それはちょっと…(汗)」
先輩「さっき通った近くの町でロープや油を購入するよ」
ぽ村「武器防具しか売ってないよー(困)」
先輩「じゃ、どうやって町の人は生活してるの?武器防具だけで生活出来ないよ?」
ぽ村「ああ、もう!!。意地悪しないでよー」
先輩「このボードゲームさぁ、戦闘は簡単だけど、色々自由に出来ないよなー?TRPGなら、あっちこっち自由に出来るよ?森も山も工夫次第で抜けられるしw」

そいうやりとりでその日は終わった。
っつか、TRPGはめんどくさいルール回しでみみっちいし、
先輩の言ってる事は解るが、屁理屈で意地悪されただけ。
という感想しかもてなかった。

そのままTRPGは秋ごろまでやらない日々が続く。

その間もボードゲームは結構な人気だった。
TRPGで余ったキャラクターシートを貰って、ボードゲームに転用したところこれまた好評で、
人のフンドシなのに「ヲレのボードゲーム、ドンドン完成度上がってる☆」とか思っていた。

しかし夏休みに入った頃
「学校にいる間出来たボードゲームが夏休みには出来ない。久しぶりにA(クラスメイト)の家で ぽ村 のボードゲームをやろう♪」
と、クラスの友人に誘われ、数人でAの家に集まった。

…が喜んで準備していった ぽ村 の予想と期待を裏切り、誘った&集まった友人達はボードゲームそっちのけで
Aの家にあったPCエンジンで遊び始めた。
結局、ボードゲームはほぼ遊ばれなかった。

せっかく準備したのに…

えらく落胆したのを憶えている。
落胆しながら ぽ村 は「ボードゲームはあくまでTVゲームの無い学校でゲームをする代用品。TVゲームがあれば代用品はいらないんだな…」
と、悟った。

そうだ。
あっちにはスピードがある映像がある音楽がある気楽さがある。

全てが無いのに勝てるはずが無い。

この出来事で悟った事実は、TRPGを開始しても長らく ぽ村 の思考を縛り続けることになる。

そしてTVゲームというものに一種のコンプレックスを抱くことになるのだ。

夏休みが明けた。

それでも「TVゲームの代用品」ボードゲームは続いていたが、10月…だっただろうか?
その日は休日で、家でもやることなく、友人達もみんな留守だったのでマンガでも読んで暇潰そうと、休みの日の午前中から生徒会室に来た。

誰も居ない校舎。
誰も居ない生徒会室で「ファイブスター」の難解な物語に苦しんでいると、来て30分もしないうちにあの先輩がやってきた。
あっちも休日にヒマだったらしい。

で、お互い暇で特に会話することも無くダラダラマンガ読んでると
先輩が「TRPGしない?」と誘ってきた。
「ええ、アレ?またぁ?」と、露骨に嫌そうな顔する ぽ村 。
「今度は大丈夫。前は不味かった。どうせヒマでしょ?」
という先輩の言葉に負けて、キャラクターを今度は1人分作り出した。
名前は…(ああ、イカン。憶えてたのに忘れてるw)
性別は男。先輩が薦めるのでウォリアー。6面体3つ振る能力値でサイコロがいい目連発。魅力度が15ってのも気に入った。
で、プレイ開始。


…今でもよく憶えている。


ぽ村 はここで人生が変わった。


良いか悪いか言うと、今となっては悪い方に。


静かな校舎で
男爵夫人をめぐる警護の話。起こされた事件。その隠された真相。
(ロードス島戦記コンパニオン1収録「おかしなラブポーション」)

自分の考えがと行動が即座に反映されるゲーム。
与えられた選択肢ではない。
「自分自身の言葉で選択する」
という自由度の高さ。
自分ひとりしか居ないという緊迫感。
普段人が多く居るはずの場所で、誰もいないという非現実っぽさがその緊張感を増したのかもしれない。
しかし、 ぽ村 はその「異世界感」とでも言うべき雰囲気に飲み込まれていた。

3・4時間ほどでシナリオが終わった。

ぽ村「続き、あるの?」
先輩「?あるよ?」
ぽ村「続けよう?まだ日も高い(多分、このとき午後2時)。」
先輩「えー?…まぁ、大丈夫か…ちょっと待ってて(シナリオ・バランス等見直し開始)。」

そして二つ目のシナリオ。
一つ目で知り合った魔法使いの老人引越しを手伝う話。
(ロードス島戦記コンパニオン1収録「魔術師のお引越し」)
今度は相棒としてNPCに魔術師が仲間になった。
時に相談相手になってもらい、また助けてもらったり助けたり…。

夕方、二つ目のシナリオが終わった頃、日が随分傾いていた。
興奮さめやらぬ ぽ村 に先輩が
「コレ読めばだいたいのルールと流れがわかるよ」と『ロードス島戦記リプレイ1』を貸してくれた。

また今度TRPGを遊ぶ約束をして、その日は帰った。
続く

1990年(後)

その日を境に、 ぽ村 はまさに取り付かれたようにTRPGに夢中になった。
ボードゲームの制作を放棄し、クラスでもTRPGを打ち、生徒会室でもTRPGで遊び、替わりに友人宅でTVゲームで遊ぶことが激減した。
リプレイを読み漁り、ルールを勉強し…

同時に、この遊びを生徒会入ってからの1年間スルーし続けていた自分を呪った。

見慣れない形状のダイス(サイコロ)は宝石に見えた
ルールブックは魔法書か宝の地図に見えた
学校も生活も一緒に遊ぶ先輩方も全てが輝いて見えた

オーバーな表現じゃない。
本当にそう思ったし、見えたのだ。

ぽ村 のボードゲームよりも深く広くルール化され、
書籍化され、
そして認知もされ、
かつ評価されている(当時、リプレイやRPGブーム、ラノベと色々連動してTRPGがバブル始まった頃だった)。
テーブルの上でサイコロを振って言葉で繰り広げるというどう考えたってニッチで、
「ひょっとしたら超無価値なことをヲレは必死にやってるんじゃないだろうか?」
と時々不安になった自作のボードゲームのようなスタイルが
こんなに評価される事だったなんて!!

二学期も後半になってる頃にTRPGにのめりこんだヲレは、それまでの遅れを取り戻すように躍起になってTRPGを遊んだ。
毎日の昼休み・放課後の生徒会室が冒険の舞台だった。

「BOOY」「X(この頃はJAPANじゃなかった)」「PRINCES PRINCES」「ユニコーン」「リンドバーグ」「米米クラブ」そして吹奏楽部の練習をバックミュージックに。

放課後は午後9時・10時まで先輩達に混じってTRPGをし、生徒会室以外は真っ暗な校舎が異世界観を醸し出していた。

当時遊ばれていたルールはロードス島戦記(リプレイ1裏・コンパニオン1版)・クリスタニア(コンプティークの付録版←!!!)
使ってるサイコロは本当は両ルールとも10面体が必要なのだが、10面体は2個のみ。
換わりに12面体が多く生徒会室にあった。
みんなはこれ見よがしに、12面体を使い、「10・11・12の出目は全て『10』として扱う」という鬼ローカルルール導入で四回に1回はクリティカルヒットが炸裂。
TVゲームほど攻撃が当たりはしないが、当たるとマジでヤヴァイというイカしたゲームとなった。

帰りは校内の心霊話の舞台でもある真っ暗な廊下を、手探りで靴箱まで歩き、警備員さんが閉めた玄関の鍵を開けてコッソリ帰る…。
その行為も背徳的で最高だった。
まるで、超楽しい事を人知れずやってる事、そしてその共有感がそう思わせていたのだろう。
帰り道は同じ方向の先輩に金魚のフンみたいに張り付き、TRPGの話を食い入るように聞いていた。

しかし、毎日学校の帰りが遅いと親がそのうちブチ切れる。
3週間ほど午後10時帰りを毎日していたら、親御に殺されたので体育系部活も帰る午後7時頃には帰るようにした。
…その点、同じく深夜帰りだった3・4人の先輩方はどうやって潜り抜けたのが未だに謎だが;

しかし、何となく気分が乗らなかったり都合が悪くてTRPGをしない日も当然ある。
それもガマンできずに、家で密かに余ったノートに書き込んでロードス島戦記のルールでシナリオを作ってきた(今も手元にある;)。

で、今日はさほど人数が居ない日に「シナリオ作ってきた。やるひとー??」と、プレイヤーを募った。

しかし
居ない。

それもそうだ。
初心者のGMってのは大体、というか間違いなく下手。
ソレを好き好んでやろうというTRPG経験者は「お人好し」か「初心者殺し(ゲームを壊す事プレイをする人)」かのどちらかだ。
そこのあたりも、当時の ぽ村 は解っていなかった。

遊んでくれる人が誰もいなくて、凹む ぽ村 。
しかし、その様子を見ていた先輩の1人が「よし、オレがやろう」と、名乗り出てくれた。
その人は他の先輩も誘ってくれたが他の先輩は苦笑いして断ってた。

仕方なく、その先輩が1人で3人分のPCを制作。
その時のJoJo好きな先輩がPC達に付けた名前がまた適当で(テストプレイなんだから仕方ないが)
「カァズ」「ワ・ムゥ」「サンタナ」だった。
(「エシディシ」は作ってる最中に名前思い出せなかったので没)

職業は戦士(ウォーリアー)・戦士・司祭(プリースト)

先輩1人で2人分のPC(確かカァズとワ・ムゥ)を操り、残り1人をNPC(残りのサンタナ)にしてプレイを開始した。

幸運だったのは、この先輩が前述のタイプで言うと「お人好し」のほうだったこと。
初心者 ぽ村 の稚拙なマスタリングを寛容に受け止め、バランスの悪さを注意し、少しだけ意地悪したりと、一通りつついてもらった。
シナリオ自体は最後まで遊べなかったものの、持ち帰って早速反省。

そして初心者を脱却して見返したいと、ボードゲームを中断した自分のクラスに持って帰って、
クラスメイト相手に昼休みやヒマな美術の時間を駆使してGMとしての経験を積み出した。
昼休みの生徒会室は集まりが悪くてなかなかTRPGにならなかったので、そこは自分なりに時間を作ったんだと思う。

しかし、希少な多面体サイコロは生徒会室から借りて来るんだがゲームをしないクラスメイトが持って帰ろうとするわ、
そもそも昼休みのような1時間も無い時間でTRPGのセッションは難しいわ…
自分のクラスでのTRPGはだんだん先細っていった;

そして12月ともなると、3年生の先輩方も受験勉強を本格化してくる人が出てきた。
生徒会室に来なかったり、来ても早めに切り上げたり…
生徒会室でもTRPGが少しづつ、回数が減ってきたのだ。

その傾向は11月中頃にあった次期生徒会役員選挙( ぽ村 は書記で当選)後、少しづつハッキリしてきた。

1991年(前)に続く。

1991年(前)

新年早々湾岸戦争が始まった(「戦争が始まりました」とブルーな表情で告げる社会科教師、生徒会室ののラジカセで緊張した表情でニュースに聞き入った事をよく覚えている)。
スーパーファミコンが発売して、そのグラフィックに誰もが息を呑んだ。
何となく景気が悪化してきている話が出てきた。

この年、ぽ村 は中3になる。
生徒会室から、先輩方の姿が前よりまばらになって
そのまま冬休みになった。
冬休みの休日にもちょこちょこ生徒会室に足を運んだが、先輩の影は少なかったし、TRPGになることもほとんど無かった。

先輩方も受験に追われて、このままTRPGは終わるのかな?

そんな漠然とした不安が ぽ村 を包んでいた。
そんな時。

手にしたお年玉で、近所の書店に寄った時、一冊のTRPGルールブックを目にした。
「ソードワールドRPG 基本ルールブック」だった。

「TRPGが無くなるかも知れない」
そういう不安を振り払うように、基本ルールと上級ルール(分冊1。分冊2は入手までに半年以上かかる。)の二冊を携えて、レジに向かった。
勘定はお年玉。

このときに入手した「ソードワールドRPG 基本ルールブック・上級ルールブック分冊1」は、2010年の現在、まだ手元にある。
画像.jpg
(当時購入した二冊。画像の左・基本ルールブック。右・上級ルール分冊1。分冊1はB5用紙で二重にカバーして保護してます)

このルールブック二冊は
たくさんの手垢と
その周囲で起こる笑顔と
楽しさと
緊迫と
苦悩と
怒りと
怨みを吸収しながら、その後十数年間使い続けることになる。

内容は正直、ロードスのルールに慣れた ぽ村 の目にはよくわからなかったが、それでも先輩方なら有効に使ってくれると思い、程なく休みがあけた3学期に生徒会室に持っていった。

そこで信じられないことが起こった。

ソードワールドは先輩たちの関心を大きく引いた。

受験前にもかかわらず、
生徒会室で据え置きのワープロでキャラクターシートを何回も作り始め、
刷ったシートでソードワールドRPGを始めたのだ。

要するに、TRPGから離れていたのはロードス・クリスタニアといった「%系ルール」に飽きていたのかもしれない。
いや、目の前に迫る高校受験から逃避できる捌け口だったかもしれない。
しかし、遅れてTRPGに参加し、半年も堪能出来ないまま半分諦めていた ぽ村 にはまさしく訪れた最後のチャンスだった。
 
週一くらい遅く帰っても親御も大目に見てくれるだろうと、先輩方の輪に入って遅くまでTRPGを遊んだ。
休日も生徒会室に来てTRPGをやらないか・出来ないかと伺っていた。

ぽ村 が持ってきたルールが、ぽ村 が欲していた環境をわずか2ヶ月間だけ取り戻してくれたのだ。

これがどれだけ嬉しくて
どれだけ貴重だったか。
今のヲレでも想像出来ない。

「高校受験なんて余裕余裕w」
と笑いながらも、貴重な勉強時間を潰して、TRPGの席にいてくれる先輩方。

そして同時期に、休日に一人生徒会室で暇を潰していた ぽ村 は、同じく暇を潰しにに来た生徒会役員の後輩一人と出くわした。

…似てるな…
なんか。
ぽ村 がTRPGを遊ぶきっかけになった去年の秋を。

そう思って、後輩をGM ぽ村 で1対1のTRPGに誘ったところ、快くOKしてくれた。

遊んだのは ぽ村 も初めて面白いと思った「おかしなラブポーション」。

先輩とのプレイを反芻していたせいか、後輩にも「すげぇ面白いw。また遊ぼうね?」と言わせるくらいうまく出来た。
自分のGMが評価されたのは初めてだったし、なにより生徒会でのTRPGを続けるためのメンバー確保に手ごたえを感じたので、色々と嬉しかったことを覚えている。

2月に入ると、先輩方もさすがに生徒会室に毎日は来なくなったが、それでも遊びに来てはTRPGをしていった。
ぽ村 も先輩方が居ない日は、前に巻き込んだ後輩を足がかりに次々と生徒会の同級生・後輩達を巻き込み、3月に入る頃には毎日のようにTRPGで遊べるような環境を作り出した。

ガンガン後輩達を巻き込む ぽ村 に
「お前、もう洗脳したのかw」
先輩の一人が呆れた笑顔を向けていた。

3月に入ると、先輩方もほとんど生徒会室に来なくなったが、高校受験前日、なんと先輩方は申し合わせたように生徒会室に集結。
そこいらにいる元生徒会メンバーのうち、かなりの数を集めて、TRPGを開始した。
受験前に、既に高校生となっていた2コ上の先輩(元生徒会役員)が生徒会室を覗きにきた時。
GMやってた先輩が「受験前日にTRPG!!。伝説を作ったぜっ!www」
と、ポーズを取り
2コ上先輩が爆笑していたのを覚えてる。

その日は軽めのプレイで終わり、先輩達は卒業した。

なんとも不思議なことなんだが、TRPGを最後まで執念深く遊んでた先輩方は全員合格。
逆にTRPGに見切りつけるのが早かった先輩が志望校不合格という結果(滑り止めには合格)だった。
世の中、色々すぎる。。。

1991年(中)に続く。

1991年(中)

3月。
先輩達が卒業した。
卒業した春休み、電話が来て90年度生徒会のみんなでTRPGやろうという話になった。
さすがに卒業生が大挙して生徒会室ってのはよろしくないので、先輩の家に集まって遊ぶことになった。
90年度メンバー集合…といきたかったが、受験に失敗した先輩やTRPGやってない同級生の役員は呼ばれず…それでも男女7人(意外かも知れないが、90年代生徒会TRPGメンバーには女性が3人ほどいた)ほどが集まった。

集まって、キャラクター作って、家の人から昼食をご馳走になって…ちょっと導入したところで終了。
「進路別々だけど、またこうやって集まろうねwそして続きをやろう!」
と、口々に言う先輩方。

これが、90年度生徒会同士での最後のTRPGになった。
このメンバーでの集会は今でも年に1・2回あるが、大部分の先輩達はこの時を最後にTRPGを辞めてしまったのだろう。

 ぽ村 はその春休み中、教育委員会主催の韓国旅行に行ったりそれでも学校に顔出してヤハリ暇してる後輩達相手にTRPGやっ遊んでた。

後輩達はあるものはTRPGに引き込み、あるものは交友関係伝いに引き込み、あるものはとにかくダイス振らせまくって巻き込んだ。
人数が集まると、興味なかった連中も寄ってくる。
後輩だけでなく、同級生役員数人も巻き込み、とにかく面子には困らなかった。

後輩達を巻き込んだ頃に打ったキャンペーンが「ファイナルファンタジーⅢ」を下地にしたものだったのも良かったかもしれない。
みんなの知っているゲームが、TRPGではこうも変わるものだと、変えることが出来るものだと知らせることが出来た。
そして、多くのグループで陥りがちな「大型キャンペーンの自然消滅」が無く、「FFⅢ」に関しては完結出来た事も大きかった。

中学校三年生になり、新しいクラスでよく絡んでくるヤツがTRPGやライトノベルに興味あったので、そこからその友人とも遊ぶようになった。
また、役員ではなかったが生徒会室を覗いた同級生がTRPGにいたく感銘受けたらしく、
「どうせ冷やかし」と相手にしない ぽ村 に3日程粘って(というか、 ぽ村 はその熱意に折れた;)
TRPGメンバー(雑用係として立候補せずに出入りしてた連中も多いのに、何故か役員になれなくて生徒会室に出入りは出来なったけど)として受け入れた。
卒業した先輩の一人ともたまに連絡を取ったりしたが、TRPGはこの頃一緒には出来なかった。
生徒会役員含め、この頃・このメンバーがその後のグループの中核を占めることになる。

しかし、二年生の頃からTRPGにハマって ぽ村 ともよく遊んでいた同級生が、突然長崎に引っ越すことになった。
TRPGだけでなく、TVゲームやライトノベル、話も趣味も合うし良い友人だったのに…
随分落胆した記憶がある。


五月頃
よせば良いのに受験生の分際で原稿用紙を買い漁り、ラノベとか書き出した。

とにかく何か作りたかった。
GMとしてだけでなく、どんな形でも。
脳味噌が何かをダダ流したかった。

…と、程なく成績が急落;

学習塾に叩き込まれ、翌月には書きかけの原稿用紙を取り上げれられ(2000年に戻ってくるが、その内容に読んで死んだ)、塾のおかげで生徒会室に長く居られない。
生徒会室でのそこそこの時間の後、塾に向かい…

それでもTRPGの場数だけはかなりこなした。
ルールはソードワールドをメインに、ダブルムーン・ドラゴンハーフ(黒歴史その1)・フォーチュンクエスト(黒歴史その2)・パワープレイ・クリスタニア・ロードス・自作のルールまで
…商業的に全盛期でルールも乱発されていたこともあるが、とにかく色々遊んだ。
ほぼ毎日TRPGを遊び、色々な場面や色々な誤算に直面した。

この頃が一番多くのことを経験した思う。
(しかし、その経験がTRPG的に良い方に生かされるのはさらに数年かかる訳だが)
それらの経験がバックボーンになってその後のTRPG趣味を支えていくことになる。

毎日のように遊ぶTRPG…
…が、市販のシナリオ集主体のプレイは当然あっという間にネタが枯渇する。
さらに市販のシナリオは無味無臭で、ゲーム自体の目新しさが抜けると「物足りなさ」が常に付きまとう。
自作のシナリオを作るわけだが、 ぽ村 が好きなのはダンジョン探索系シナリオ…

ここで、ダンジョン探索系シナリオの弊害を嫌というほど知ることとなる。
生徒会室でダンジョンシナリオを乱発した結果、ルールを習熟したプレイヤーに「飽き」が生じはじめたのだ。
結果、ダンジョンの進行は少数に任せ、「戦闘始まったら呼んでー」と、随分テンション低いプレイがまかり通るようになり、
二学期中ごろにはTRPGの熱意自体が生徒会室で全体的に下火になっていた。

TRPGで遊びたい( ぽ村 含め)数人が声をかけても他のみんなの気が乗らないのだ。

そうなると別の熱意あるメンバーを生徒会室の外に求める。
後輩数人も ぽ村 も、やがてクラスメイトや生徒会外の友人相手にTRPGを遊ぶようになる。
平日は生徒会室、休日は友人たちと…と、そのウェイトはだんだん熱意ややる気のある友人達の方に傾いていく…

1991年(後)に続く。

1991年(後)

生徒会のメンバー相手中心にやってたTRPGを、友人達中心にシフトしていったきっかけは、
クラスメイトでもあった友人の「TRPGをやってみたい」という台詞だった思う。
雑誌「ファンロード」の愛読者だったらしく、当時紙面で加熱していたTRPGネタに興味を覚えたそうだ。



 ぽ村 もせめてあと1人プレイヤーがいたら ぽ村 GMで遊んでも良い。
という条件を出した。
ほぼ当日のうちに、クラスメイトの友人は別の友人を引っ張って来る。
そして、生徒会入りから弾かれた同級生を交えて翌日の放課後にTRPGを始めた。

…それが、二学期始まった頃だったと思う。

生徒会室ではだんだん ぽ村 の居場所も無くなってきていた。
「生徒会長になったのは内申の為」
とカミングアウトした新生徒会長の台詞にカチンときたヲレは、以前とは違い仕事に対して積極的な態度を取らなかった。
主な仕事だった会報の打ち込み&印刷も、新担当教諭の「ワープロによる会報は温かみが無いのでNG」というよく分からない理由で筆記字の汚いヲレは除外。
ヲレでなければ出来ない仕事が無くなった。

みんなあれほど夢中になっていたTRPGも、SWのルールを習熟し、新しいルールにアタリが無いと判断するや、生徒会役員達のモチベーションは明らかに下がってしまった。

生徒会室にTVとTVゲーム(PCE・SFC)が持ち込まれると、それがより顕著となり、TVゲームよりTRPGを遊びたいヲレは生徒会室外にその場を求めるようになった。

一方で、学年の違う後輩生徒会役員の一部も、生徒会室外でTRPGの場を求めていたようだ。
(先輩・後輩でどちらかの学年の教室で遊ぶのは色々と勇気が要る話だった)

せっかくやる気あるメンバーはいるのに、学校では同じ場所で遊びにくい…という障害を克服すべく、日曜日に持ち回りでメンバーの家に集まってTRPGを遊ぶというスタイルが提唱される。

しかし、家庭の色というか空気と言うか。
日曜日に友人達がゾロゾロ遊びに来て数時間ワイワイしてもオッケーという家庭は少ない。
ソレが何度もとなるとなおさらだ。

次第に、ヲレの家に集まるのが普通になってきた。

11月。
新しく生徒会の選挙が行われ、ヲレは生徒会を引退した。
続投すると思われた後輩達も、TRPGに夢中だった連中はじめ、半数近くが立候補もせずに生徒会から離れた。

もう来ることは考えにくい12月。
生徒会室に置いてあったルールブックをまとめて回収しようとすると、残ることになった後輩(新会長となった後輩)が
「 ぽ村 ~。TRPGは生徒会の伝統でしょ~。ルールブック置いていって~」
と袖をつかんできた。

ヲレは呆れて、
「やる気無いだろチミ含めww。こっちが使うから回収するんだ。そっちが使うなら買えw」
と振り切って回収。
以後、卒業まで数えるほどしか生徒会室に足を運ばなかった。


ぽ村 卒業後、この新会長は程なく登校拒否になったそうだ。
理由は本人しか分からないだろうが、あの自由(というより無法)な生徒会は旧メンバーが居なくなり、新しく入ってきたメンバーの中で成立しなかったという話を耳にした。
その自由の一つTRPGを回収と言う形で奪ってしまったんだろうか…?
今でも時々気に病んでいる。

修学旅行の船の中、船酔いと不良どもの妨害に苦しめられながらも、船や行く先々の旅館で暇つぶしにTRPGやったりした。
いつもと違う状況下でやる遊びって、なんであんなに楽しいんだろう?
結局、一つのミッションもクリアは出来なかったけど、TRPGしてるときに「まぜろ~!」と乱入してきたメンバーの姿を多分一生忘れられそうに無い。

そうしているうちに、受験に向けて塾は忙しくなり、12月一杯でTRPGはほぼ休止。
再開は92年3月(高校合格後)を待つことになる。。

あと、ちょっと黒歴史を投下すると
このTRPGのチーム名は「SRD」だった(90年代中ごろから恥ずかしくて使わなかったけど)。
「生徒会(S)RPG(R)同好会(D)」
で。
「会」が二つもついてるじゃないかよとか「SNE」のパクリかよwとか色々突っ込みどころもあるけど、黒歴史を包み隠さず告白してるので勘弁して欲しい;

1992年(前)に続く。


1992年(前)

景気の冷え込みが本格化…とか言われ始めた。
政界のドン金丸が汚職他「色々」やってくれた。
 ぽ村 はこの年、志望校に合格して高校生になる。
そして親御に内緒で家庭用TVゲーム機(メガドライブ)を初めて購入した。


92年になり、勉強が忙しいという理由でTRPGが出来なかったのかというとそうでもない。
純粋に場所が無かったのだ。
生徒会室から出て行って以来、ぽ村の家で日曜に遊んでいたTRPGは、受験を前に空気を読んで控えていた。

実際、ドキドキはしていたが志望校にはかなりの確率で入れるという模試の結果が複数出ていた。
メンバーも多くは同じ高校への進学を希望していたし、生徒会の先輩達も多くが進学してる高校なので、TRPGを続けるには志望高校合格が絶対必要条件と、言い聞かせて自粛していたのだ。

それでも息抜きにライトノベルを購読したり、オリジナルルールのアイディアを練ったり、当時ぽ村の地方で夕方に放送されていたアニメ版「銀河英雄伝説」とか「きんぎょ注意報!」とか見てキャッキャしてたのを覚えている。

そして三月。
翌日入試と言うとき、入試の準備をしながらふと一年前の先輩方を思い出した。

「高校入試前日にTRPG!」
と誇らしげにポーズをとった先輩方。

そんな空気でなかった今の自分を思い浮かべ、なんだかなぁ…と苦笑した。

実際、この一年でTRPGに関わることが大きく変わった。
教えてくれた先輩方は消え、入ってきた新役員達は一度は夢中にさせることが出来たものの、その多くを半年もつなぎとめることが出来なかった。
かわりにクラスメイト中心の同級生達が来ている。
毎日のように遊べたTRPGは週一になった。
かわりにたっぷりシナリオを考える時間が増えた…と、前向きに考えることにしたが、
同時に「プレイ回数が減る分GMをやる(できる)人が少なくなるのではないか?」
と、少し心配になった( ぽ村 のこの手の勘が良く当たる)

入試は合格。

合格した後はすぐにTRPGを再開した。
場所は引き続き ぽ村 の家。
ソードワールド・オリジナルシナリオ中心に遊び始めたワケなんだが…この頃から週一で集まるこの集会に、家族…というより親御があまりいい顔しなくなった。

中学の卒業式。
あれほど楽しかったのに、卒業式では少しの寂しさだけで晴れ晴れ感があった。
この中学校生活で
体力は付き
成績は上がり
自分にピッタリな趣味とそのメンバーに恵まれた。

高校はもっと面白いところに決まっている。
そこには先輩方もいて多分TRPGとかもやってる…
と、思ってたし信じてた。
場所は変われど、つるむメンバーはほとんど変わらないのだ。
あまり寂しくは無かった。

4月
入学先の高校で誤算が多く噴出した。
仲の良いメンバーや友人はことごとく別のクラスになった。
それどころか一人を除いてかなり離れた。
さらに自分と同じクラスになった連中(ほとんどが別中学出身者)と全然ウマが合わなかった。
(全体的に体育会系。コッチはインドア系なのだ)
休み時間に友人達の居るクラスに顔出そうとしたが、移動教室だと移動するだけでタイムアップ。
さらに担任(コレもちょっと難ある人だった)の「他のクラスに出入りしないように」という鎖国令でおいそれと出入りできなくなった。

さらにTRPGを遊んでいるだろうと思った先輩方はバンド活動や当時流行っていた対戦格闘ゲーム等に傾倒…
唯一、
「TRPG?まぁやっても良いよ~」
という先輩が一人居るくらいだった。
さらにその先輩が文芸部に勧誘してきた。
「そこが新しい戦場?」
と、サッカー他の勧誘を蹴って加入したが、どうやらそうでもない…というか、先輩自身が幽霊部員で勧誘だけお願いされているようだった。


かなり、と言うかスゴイ喪失感を味わった。


「TRPGはまだちょくちょく遊んでる」という91年に聞いたわずかな情報を頼りにしていたのでなおさらだ。

進学先の高校の勉強はレベルがかなり上がっていて、気合入れないと理解できない。

つまりは定期試験の勉強の手が抜けない。
何より雰囲気が良くない。
世間一般でもっともテンション高い、楽しいとさえ言われていた高校生活だが、生徒の一部が空回りしてるだけで学校全体に脱力感が常に漂っていた。
(実際、イベントや行事関連の出席率が全体的に低く、みんな冷めていた)
学校に行っても友人達とろくに遊べず、勉強のスケジュールは窮屈。
クラスの連中とはノリが合わない。
生徒会室のように溜まり場になる場所も無く、中学ほど広くない校舎でアジト的な場所も探せない…。
入学した高校で放課後にTRPGする計画はこれで消滅した。

仕方無く、週一のぽ村の家でのTRPGで妥協し、平日の放課後は窮屈な高校生活の鬱憤を晴らすべくTRPGメンバーではない友人の家でFCやらSFCやらのTVゲームで遊ぶ日々が続く(スケジュール的にはコレが三年間も続く)


1992年(後)に続く

1992年(後)

夏ごろ、自腹で貯めた金でメガドライブを購入した。
当然親御はNGなので、隠し持っていた。
同時期にS・RPGの「シャイニングフォース」を購入したのだが、コレがその頃やっていたSWのシナリオに大きく影響を与える。

GM経験者はわかる話なのだが、TRPGはシナリオを一つ作るだけでも結構なアイディア・労力を必要とする。
それが連続したシナリオ…キャンペーンともなると想像を絶するパワーが必要になる。
事実、パワーが足りずに自然消滅というのが一番多いキャンペーンの終了だったりする。

つまりはどうやってシナリオを面白く・出来れば楽に作るかと言うことに思考が傾倒していく。

そこで ぽ村 がとった策が「既存のTVゲームRPGを下地にしたTRPGキャンペーン」だった。
PCエンジン・メガドライブなど二線級のハードから、これまたあまりメジャーじゃない(メンバーが元ネタの物語りを知らない)RPGをチョイス。
具体名を言うと「コズミックファンタジー(PCエンジン)」「LUNAR(MD)」「真・女神転生(SFC)」等から話を持ってきてデータをコンバート。
物語をTRPGでも無理の無い方向に修正する…というものだ。

当然、自由度が低いなどの弊害もあったが、色々な要素が重なってソレも目をつぶってもらえた。

目をつぶってもらえた理由としては
・あらかじめ原作TVゲームの作品タイトルを言うと、「ああ、そういうもの…」と、自由が束縛されるのが何となく了承される。
・そもそもメンバーが多いので予定調和的な行動に傾倒しがちで、予定調和=原作の話の通りに進む
・戦闘が多い分、各プレイヤーに出番が良く回ってくる。ダンジョンシナリオも敵を多く配置すればダレが少なくなるし、少なくとも退屈はしない。
・話にはゲーム版で出てたヒロインやラスボスも当然出る。物語通りだとプレイヤーの一人と良い仲になったり、ラスボスを倒すというゴール地点が見える(このゴールを作れず迷走するキャンペーンも多い)安心感等メリハリあるプレイが期待できる。

上に挙げた作品のうち、
「シャイニングフォース」は戦闘の広域バトルをSWの広域タクティカルコンバットに置き換えて、オリジナルのシナリオを。
93年に始める「LUNAR」はタイトルを挙げずに、序盤一部分の攻略記事を基にしたキャンペーンをSWルールで(おかげで長くゲーム原作と気付かないプレイヤーもいた)。

「コズミックファンタジー」「真・女神転生」にいたっては既存のルールではコンバートに向かない為、それぞれ一つづつオリジナルルール・キャラクターシートを作成して対応した。

このうち、「コズミック」はルールの完成度がイマイチだが高速戦闘が可能に(魔法をもっと色々つければ…という意見があったが、戦闘中心のシナリオ作りから外れるので敢えて却下した)。
「真・女神転生」は戦闘と成長のルール「だけ」に限ると結構良い評価が貰えるルールになった。

が。
当然、一方で戦闘ルール回し自体に飽きが発生してくるようになる。
その打開策として色々な模索が92年~93年秋口までされるのだが…

話を戻して92年秋頃。
週一で集まるメンバー達と長時間に及ぶTRPGセッションに痺れを切らした親御が趣味としてのTRPG自体の放棄を ぽ村 に迫ってきた。
ゲームブック・ミニ四駆とは違い、コレには頑強に反抗した。
以前のゲームブックやミニ四駆や自作のラノベと言ったものは親御の金をくすねたり成績が低下した中での圧力での廃棄だったので、自業自得…と半ば諦めと言うか納得できる部分があった。

しかしTRPGは以前の反省を踏まえて全て自腹で購入し、成績は以前よりも上昇して(中学時代は「中の上」から高校になって「上の中」まで上昇)いた中での廃棄圧力だった。

この趣味を放棄しないための努力が無駄になる、と言うか、廃棄を迫られる理由が不明すぎるので頑強に反発したわけだ。

すると論理的な理由が不明なのは親御も悟っていたのか、
「趣味を認める代わりに実家で二度とセッションするな」
というお達しが出た。
「ウザいってだけなら最初からそう言えヴォケ」的なケンカ腰で終了。

それでも勝手に廃棄されるのを恐れて、ルールブックやみんなのキャラクターシート等を目に付きにくい場所に隠すようになった。

こうして実家でのTRPGセッションは不可能となり、メンバーはまさしく路頭に迷うことのなった。
(その後実家で遊べたのは7年も後のことだ)
それから半年以上に及ぶ場所の苦悩が始まる。

1993年(前)に続く

1993年(前)

Jリーグ開幕とかサッカーブームが頂点になった。
北朝鮮がノドン一号ぶっ放して、ミサイル問題がここから始まった。
新党ブームで自民政権が倒れた。
年の終わりに32BITハードが各社から発表され、翌年発売。
その苛烈なシェア争いが「ハード戦争」と呼ばれるようになる。

TRPG的には輸入した新ルール「ガープス」をテコに「コンプRPG」の刊行が本格化するなど、商業的に極大になった年らしい(同時に、それまでTRPGを牽引していた「ロードス」「SW」の失速があったのだと思われる)。

 ぽ村 は高2になった。
クラス替えで、趣味や話の合う連中が多く一緒のクラスになれた。
その頃のクラスメイトには、この板に出入りしてる人もいる。
高1と比べのものにならないほど楽しい一年になると思い、実際高校生活で一番楽しかった学年になる。

しかし年の初めからTRPGを囲む状況は悲惨だった。

TRPGを遊ぶ場として ぽ村 の家を追い出されたワケだが、他に全く場所のアテが無かった。
他のメンバーの家も家が狭いだ、家族が多いだその他の理由で全てNG。
公共の場を借りようにも、金が無い高校生の身や、出席率が悪くて流会になる頻度を考えれば動けない。
何より「ゲームをするから会議室貸して下さい」という言葉に当時の役場の人がOKだす可能性が考えにくかった。
そこで、高校の図書委員のメンバーが休日の図書室の使用を提案してきた。

日曜は図書室が開いてない。
それどころか、学校全体が開いてない(警備員さえ居ない)こともある。
当然、許可を貰ってのものではない。
不法侵入して使用しようと言うのだ。
しかし、他に手段が無いのでソレは暫定的な一時案として採用。

図書室への侵入法は、
1、図書委員のメンバーが土曜日に、司書室の目立たない窓の鍵を遠目でかかっているように見える細工(かかっては居ない)。
2、日曜にその窓から進入。司書室でTRPG。当然空調・電灯はNG。
3、終了後、同じような状態にして撤収。

コレは多くの不安要素を抱えていた。
・図書室がシッカリ戸締りされるとアウト。
・ ぽ村 の通っていた高校はエアコンも無いくせに、学校としてはセキュリティが高度だった事。
・図書委員のメンバーが結構忘れっぽい性格だった事。
・不法侵入という違法行為についての後ろめたさ。

大きすぎるリスク。
しかしココで半年以上の苦難を味わう事になるのだから、それほど場所の問題は大きく、深刻だった。

そのリスクの一つ、不法侵入はメンバー一人が状況に耐えかねて脱会してしまうほどだった。

他にも
「メンバーが集まっても、鍵が閉められていてプレイできない」
「せっかく侵入できたけど、窓が開いたときにセンサーが働いて、管理人さんに見つかり締め出し」
「遊べて撤収時に、廊下の赤外線センサーに引っかかってジリリリリリリリリリリリで、逃げるように脱出。以後、より侵入が厳しくなる」
「センサー作動を恐れて手洗いさえ行くのが困難化。」
「前日が学校登校日である必要があるので、冬・春・夏休みといった長期休日時にはTRPGが一切出来ない。」
TRPGで遊ぼうと予定して遊べる頻度は6割程度。それを見越した出席率の悪化と、もはやTRPGどころじゃなくなる状況だった。

そんな中で遊んでいたのがオリジナルの「真・女神転生」だったり、 ぽ村 の実家でもやってた「SW」のキャンペーンの延長やショートシナリオだったりした。
他にも生徒会時代の後輩(当時まだ中3)がTRPGプレイヤーで高校の近所に住んでたこともあって、中学生なのに ぽ村 達と高校に侵入してTRPGを遊んだりしてた。
この後輩はもっと上の学校も目指せたのに「家近いし、みんないるし、ランクも中の上くらいだしw」と、 ぽ村 達のいる高校に入学してきた。
数年後に後悔してたけど;


普段の交友関係はじめ、高校生活が充実。
TVゲームは購入したMDや友人の所持するSFCに面白いゲームがガンガン出て、元々ゲーマー気質の ぽ村 を狂喜させた。
上記の状況も相まってTRPGが下火になってきた…と言っても過言ではなくなってくる。

不安定な場所でTRPGを続けるなか、5月・6月・7月・8月…と過ぎ、9月。
グループの方向を大きく変えるキャンペーンが始まる事になる。

1993年(中)に続く

1993年(中)

それは場所がなく、ほとんどTRPGの出来なかった夏休みも終わり、9月になった頃だった。
生徒会時代からのメンバーから、
「同級生にTRPGのこと話したら、興味持って『やりたい』って。ソイツ用に新しくシナリオっつかキャンペーンでも組んでくれ」
という依頼があった。

当時、グループでは真・女神転生でダラダラ戦闘ばかりのシナリオをこなしていた。
その『ああ、他にやることも無い金も無いから消去法で集まってる』感が全体を漂う中、この依頼はちょっとしたチャンスだと思った。

当時だらだらと戦闘中心のシナリオやってる傍ら、家ではライトノベルをグループのみんなが読み漁っていた。
 ぽ村 も例外ではなくライトノベルを買い漁り、暇さえあれば読んでいた。

当時、ライトノベルはTRPGのルールやリプレイ・世界観をそのまま持ってきたりアレンジしたりしている作品が大きく幅を利かせていた。

質はかなりムラがあった(リプレイの内容に沿わなければならないため…これがTRPGの周辺物としてのライトノベルを衰退させた一因だと思う)が、そこに色々と違和感を感じていた。
現実に今やってるTRPGセッションはこんなにダラダラで、リプレイを基にした小説はこんなに面白かったり笑えたりする。

映画やアニメを見てても思った。
同じ『物語』を作ってるハズなのに、なんでこんなに自分達の重ねる物語はテンション低いんだろう…。

戦闘と言うルール回しで、ダイスという運に任せた刹那刹那の喜びに興じている。
面白いかも運次第。
その日のプレイを後日反芻することなど一切無く、次回に対する期待もほとんど感じられないその場その場で終わるセッション。

自分にも原因があるから、それを突然「変えよう」なんてそうそう言えない。
そしてその「変える」方向性も定まらない…。

でも、TRPGをもっと面白いものにしたい。
理由も無く出てくる敵をプチプチつぶすTVゲームの代替ではなく、違う何かにしてみたい。

話は少し戻って、その年の5月頃の雨の日。
せっかく図書室に潜入できたというのに、その日はPL達が二人しか来なかった。
 ぽ村 も合わせれば3人…。

そこでPL人数5人のSWのキャンペーンを続けるわけにはいかない。

仕方なく、そのキャンペーンのPCを使ってショートシナリオを一つ打つことにした(そういう時の為に、GMはピンチヒッター用のシナリオを準備していたりする)。

キャンペーンより単発シナリオの方が色々と制約が少なくて済む。

打ったシナリオは
「邪教に染まっていないダークエルフの幼い姉弟の保護。姉弟を問答無用で『処分』しに来るファリス(正義の神)神殿からの兵隊から護衛・かくまってくれるマーファ(慈愛神)神殿まで一週間程度の道のりを護送する」
という内容。

最初はダークエルフと言うことでいぶかしむPL二人。
しかし姉弟の無邪気っぷりに絆され、最初に保護していた依頼人からの護送の依頼を引き受ける。
だが、姉弟の『処分』を狙ってくるのは法の番人でもある神殿の兵。

いつもどおりに撃退するとPC達は間違いなくお尋ね者に。
だからと言って撃退しなければ姉弟ともども悪玉として殺されてしまう…。
そして話の中盤には姉弟を別の目的で狙う暗黒神の司祭が…

いかに戦闘を避けるか。
そしていかに敵の一方を説得し、自分達へ向いた矛先を他所へ向けるか…。

当時から戦闘ばかりになっていたセッションへのアンチテーゼとしてデザインしたシナリオだった。

同時に、安定した「戦闘と言うルール回しの楽しさ」をほとんど捨て去ったシナリオになり、博打の意味が強かった。
それに少し強引な展開もあった(誘導が上手くいって、そういうことにはならなかったけど)。

しかしその日のセッション、PLの二人は大いに喜んでくれた。
(うち一人はこのセッションを皮切りにかなり趣味が変わってしまったくらいだった…が、その話はまたいずれ。)

ともあれ、一回限りで自信は持てなかったが、
「戦闘やダンジョン探索といったルール回し以外のシナリオも案外…というか、かなりイケるのでは?」
という漠然とした思いを抱いた。
今思うと
あのセッションはその後の物語重視型シナリオの鋒矢だった。

そしてほとんどTRPGの出来なかった夏休みが来て、
夏休みが終わってTRPGが出来るようになっても、またあの戦闘主体の消極的なセッションが待ってるのか…と思うと気が重くなっていた。

せっかく再開できたのに、あの低いテンションのままで再開されても面白くない。
5月頃にやった、あの姉弟の話のように物語やPCの置かれたポジションでの苦悩が…要するに物語の内容で引っ張っていくキャンペーンがやりたい。
そう、思ってるときに新メンバーが来る?
という話が来たのだ。

新メンバー…メンバー数でこそグループとしては困っていなかったが、実際の出席率を見ると上記のセッションのようにかなりムラがあった。
加えて、数ヶ月前には図書室での利用方法に異議を唱えて去ったメンバーもいたので、ここは例え出席率が悪くてもメンバー数はそろえておくべきとも考えた。

しかし、出席率が悪くてもとは言うが、良いに越したことは無い。

出席率を良くするには「TRPGが面白いもの・次回が楽しみなもの」と認識させる必要がある。
そのメンバーの定着の為という名目なら、戦闘中心のセッションからの大きな方向転換が許されるのではないか?
「次回も楽しみなもの」と言えば、やはりキャンペーン(そういう依頼もあったことだし)。

しかしルール回し以外でキャンペーンをデザインするのはかなり厳しい。
物語型のキャンペーンを打ちたいが、ネタが無い。
否、ネタあってもバレた時の場のシラケが怖い。
それまでも、マイナーなTVゲームRPGからシナリオやシステムを持ってきていたのも、それが理由だ。
それにTVゲームRPGからシナリオを持ってきては、また戦闘ばかりのゲームになってしまう。

苦悩しながら、ふと、以前買ったメガドライブの専門雑誌にを開いた。
PCエンジンから移植された「コズミックファンタジー」はもう使った。
「1・2」まで終わらせて「3」でノリが悪くなって自然消滅したんだ。
などと考えながら、ふと、一つの記事で手が止まった。

当時、MCDで大作として期待されていた雑誌発売当時の新作「LUNAR(初代)」序盤の島の地図と、言葉少ない一部の登場人物紹介。
そしてデータなども一切無い、ちょっとだけの攻略記事だった。
攻略と言うより予告や序章に近い扱いだった。


ちょっと話はそれるが、今現在こういう授業が小・中学校の国語の時間にあるだろうか?
絵だけの絵巻物や、文字が何も書かれていない地図を見て、自分の考えた話を創作する授業。

 ぽ村 は3学期、授業参観にあわせて発表させること目的で設置してるであろうこの授業が大好きだった。
少ない情報を元に、自分の想像(と言うか妄想)を膨らませて物語を作る…。
(超余談:小5の頃は1週間で原稿用紙20枚以上書き上げ、参観日に発表するも3枚目のところで強制的に切られた。)

ちょうど、そのときの授業と良く似ている状況のように思えた。
あの頃は小学生だった。
中学生のときは授業時間のタイムアップでそこまで授業が進まなかった。

今なら?
ライトノベルや映画やアニメ見て腐らせた脳で、どのくらいの想像力の爆発が見れるのか?
それを試したくなった。


でもやはり物語型のシナリオには多くの不安もあって、そうやって想像力の膨張でキャンペーン組もうと言うのも
「100%のネタバレが存在しない為」
であったが、一方で
「自作の物語をみんなの前で打つのが恥ずかしい…。登場人物(NPC)の名前はそのままにして、いざウケなかったら『いやぁ、あのTVゲームから持ってきたんだけどダメだったなぁ…アハハハ;』とでも誤魔化せるよう、予防線を張っておこう…。ついでにキャラクターシートの絵も絵柄は好み(現在同じイラストレーターが『アイマス』のキャラデザインやってたりする)そのまま写しで」
と、どっちつかずな態度で制作を転がし始めた。

1993(後)に続く

1993年(後)

とっておきのネタを投入するんだから、このキャンペーンには綿密な準備も怠らなない。
これまでのプレイで確認できた行動の傾向から、あのPLは戦闘の線から攻めよう。
あのPLは恋愛ロールもいけそうだからヒロインのNPCはコイツのだ。
サブの物語は新規加入のPLのをベースにすれば、食いつきは良くなるに違いない。
リサーチをして、暗にPL達の役割を割り振り(当人達には告げない)、クサい台詞もシナリオに書けば問題ないだろう…読むだけで良いんだし。

と、

こうして始まったキャンペーンシナリオ第一回は大いに受けた。

しかし、始まってつかみはオッケーと言うときに、図書室の警備が厳しくなって2週間連続でプレイが流れる。
そのときに「新しいキャンペーンの続きも気になるので、他所に移ろう」と、メンバーの一人が提案。
他のメンバーが「うちの団地の集会場が使えないか当たってみる」と、随分と能動的に動き始める。
ちょっと、その積極さにヲレは戸惑ったのを覚えている。

数日後、「毎週とは行かないけど…」という条件付で、N団地の集会場の使用が出来るようになった。

そこで96年の秋まで…つまりは3年間丸々TRPGを遊ぶことになる。

場所の不安も無くなった事も含め、新キャンペーンのネタが脳内で湧いて仕方ないヲレはシナリオ作りに心血を注ぎ始める。

当時、GMをやる機会は ぽ村 が多かった。
しかし、他にもGMが出来るメンバーが二人居たことから、三人持ち回りでGMをやるようになっていた。
 ぽ村 は「SW」、メンバーの一人は「ガープス」、もう一人は「ローズトゥローズ」「バトルテック」他色々。。

一週ごとに変わりバンコでGMをしていたんだが、 ぽ村 が始めたこのキャンペーンの話がノッって来た頃、
ガープスをやってたGMの一人が自分のGM順番のときに「ぽ村のキャンペーンの続きをやろう。…続き、あるんだろ?」
と、言ってキャンペーンの続きを遊んだことがきっかけで、次第に ぽ村 の作ったキャンペーンばかり…つまりは、 ぽ村 のGMばかりの集まりになった。

つまり、そう。
このキャンペーンは大当たりした。

村の小さな事件から旅は始まり、女神の隠された過去、古代超兵器内での因縁を持つもの同士の死闘、そして黒幕の正体とそれも軽く凌駕する最終ボスの存在…。
自キャラの設定を考えてきたPLには、その設定を最大限シナリオに反映させる努力もしていた。
要望も一人一枚づつ白紙を渡して、自由に記入してもらい、それを可能な限り叶えていた。
正直、こんなに至れり尽くせりなキャンペーンは打ったことも遊んだことも無かった。
おそらくメンバー全員がそうだっただろう。

「新人をつなぎとめる」という当初の目標は軽く達していたし、
「 ぽ村 …なんで今までこういうのを打たなかったんだ…;今までの時間がもったいない…」と、メンバーから妙な叱責までされるほどだった。 
プライベートでも「お前の役よこせよw」と、TRPGの会話が出るほどだったし、一部メンバーは元ネタが解っても他のメンバーに伝えようとも、自分で内容を調べようともしなかった(内容は元ネタと随分違うんだが)。

後に、同様のプレイスタイルの ぽ村 製キャンペーンを痛烈に批判(コレが内紛となる)するメンバー達もこのキャンペーンには全員参加していたが、概ね好意的だった。
むしろ戸惑いながらも喜んでいた。

次回が楽しみらしく、セッション出席率は比較にならないほど上がり、欠席せざるを得なかった者は前回のあらすじを要求し、遅刻者も激減した。
このキャンペーンが、グループ全体の空気を変えた…と言っても過言ではない。


しかしこのキャンペーンは同時に、それまでプレイしていたキャンペーンやSW以外のルールをほぼ駆逐する。
それが、メンバー全体の視野や価値観を大きく殺していくことになる…。
良くも悪くも、みんなの意識を大きく変え、そしてこのグループを長く支えるキャンペーンシリーズの第1作目は大好評のまま翌年はじめまで続く。

1994年(前)に続く

1994年(前)

新党ブームで出来た政府が短命政権連発してた。
ルワンダでスゴイ虐殺がおこった。
年の終わりにセガサターンやプレイステーション(初代)が発売され、次世代機がスゴイ勢いでゲームをリリースし始める。

 ぽ村 はこの年高校三年生になる。

この頃になると、毎週は借りれないハズだった集会場が(当時の管理人の爺さんがオッケーして)毎週使えるようになった。

二月。
エンディングもちょっとオマケのシナリオともども、好評のうちに終わったキャンペーンは ぽ村 がメガCDを購入して本物の「LUNAR」を手に入れたことから、コレを元に続編を…とか考えた。

ちょうどその頃から、大学受験を意識して予備校へ通うようになり、TRPG制作にかける時間が激減することが予想された。
つまり、原点に返ってTVゲームRPGのコンバートにすれば元々のキャラクターの愛着もあいまって、そこそこ受けるんじゃないだろうか?
と、TRPG的には手抜きなこと考えた。
(余談だが予備校の近くにはゲームセンターが複数あり、当時のクラスメイトの影響でソコに通いだす。)


幸い、「LUNAR」の本編の物語は序盤の攻略記事だけを元に考えた前回キャンペーンとは全く違うものだった。


地名だけは矛盾が生じるおそれがあったので、地名決定は一部のメンバー達と相談して決定。
ゲームに攻略本も手に入れて「これで鬼に金棒…」とばかりにキャンペーンを開始したのだが…。


色々と誤算が…というより、見通しの甘さを痛感する内容になってしまった。


まず、「LUNAR」本編が大して面白くなかった(SS・PS1版は面白いよ)。
また、普通のTVゲームRPGは仲間となるキャラが出てくる。
その仲間となるキャラは登場自体するタイミング自体が物語進行の鍵となったりするので、最初からいるPC達にその役割を回せず、結果同行するNPCが常に4人…という大所帯になった。
NPCが多いと発生しがちな弊害・今で言うと「吟遊プレイ」が出てきた(前回キャンペーンで盛り上がってるところで一部吟遊プレイしたら受けた。吟遊プレイの弊害を知らなかった ぽ村 は二匹目のドジョウを狙ったのだ。)。

前回キャンペーンの一部PCの続投を強制してしまった。
敵が強大すぎて、その打倒に向けての理由付けが必要となり、その理由付けの為に多くのセッションが犠牲になった。
他にも前回キャンペーンのPCやNPC達のその後を描いたりもしたせいで、余計に風呂敷が広がった。


94年2月~10月までの八ヶ月間。
非常に長いプレイになった。
そしてその割には盛り上がらず、惰性でダラダラやるようなプレイが続いた。
これらを一つ一つ潰すことになった結果、自由度や物語の刺激を失わせることになった。


その間、色々な問題の火種がおこり始める。
「自分のPCが居なくても誰かが決めるので、戦闘まで寝たりマンガ読んで暇を潰す」
「そもそも出席する必要性も感じられないセッションがある」
「主要なPC達が物語的に贔屓されすぎる」
「目的が大きすぎて、自分のPCがパーティに参加し続ける合理的な理由が無い」
これらは、このキャンペーンに限らず長期化・物語の固定化したキャンペーンに付きまとう弊害ともいえる。


その形態の長期化が一部のPL達に一種の反感や不信感となって根付きはじめるのもこの時期だった。


しかし、悪いことばかりだったかと言うとそうでもない。
「地図上では広範囲にわたるキャンペーンだったので、そこに存在する都市や国家の設定が固まった」
「キャンペーンが大風呂敷だったが、それを畳む為に比較的破綻しない世界設定を固められた」
「大きな目的=登場人物がその後英雄化し、その後の歴史に大きな影響を与えることで、PL達の『自分のキャラクターが世界を変えた』という意識を当てることが出来た。」
つまり、次回以降のキャンペーンの土台が出来た。
実際、その土台はその後2008年までキャンペーンの基礎となる。


また、この時期は最もメンバーが存在した時期でもあった。
前回のキャンペーンが面白くて、引き続き参加したメンバーも多く、その数は ぽ村 含め8人に膨れ上がっていた。
(今思えば、4人:4人で二つに分かれてセッションするのも悪くは無かったかもしれない…が、多人数PLが当たり前の当時の状況的に難しいかとも思う)


 ぽ村 もGMとして多くの事を学んだ
・多くのNPCの同時登場はPC達の出番を削るし、GMの1人芝居になってしまう
・戦闘の敵はルールブックに載ってる敵データより、オリジナルで設定したものの方が「未知」と言う感じで盛り上がる。
そのオリジナル敵のデータを「バランスよく」作成するコツを掴めた。
・目的が無いとPC達は動きにくいということ。
・そもそもGMが「面白い」と確信してないシナリオは、PL達を楽しませることが100%出来ないということ。
・大人数の弊害。
・愛着があるキャラクターほど大切な「引き際の大切さ」。


一方でその後悩む課題も残された。
・合理的に冒険を継続させる理由を、どうするのか?
・自由度と物語性の融合ってどうすればいいのか?

図らずも素材が出来あがっていた。
「一つ目のキャンペーンで終わっていれば良かったのにね」なんて言われるのがイヤだった。
つまりはリベンジする気満々で、キャンペーンが終わる頃にはキャンペーンの元になった作品「LUNAR」の続編「LUNAR エターナルブルー」の発売月が迫っていた。
雑誌に掲載されたその設定が、 ぽ村 の琴線にも引っかかった事から、三作目のキャンペーンに取り掛かる事になる。

そんなことを、大学受験も控えてるのに取り組み始めていた。

1994年(後)に続く

1994年(後)

今回はちょっと脱線話。

目の前に迫ってるはずの受験に、なぜTRPGなんぞにうつつを抜かしていたかと言うと、実は当時、TRPGにさほど時間を割いていなかった。

シナリオは土曜日の夜、二時間ほどで一週間分考え込んだシナリオをつなぎあわせて完成。
日曜日のセッションは大体5時間くらい。
つまり、一週間に7時間程度の趣味だった。
「一日一時間TVゲームやってる連中と一緒じゃないコレ?」
とか思っていたので、ズバリ受験の為にTRPG禁止云々はさほど考えていなかった。
今考えると、TVゲームも友人宅で遊んでたので、一緒とは言えない様な気がするが。


それでも、キャンペーン三作目が本格始動した(一応94年12月からは開始していた)のはセンター試験が終了した年明け。
親御の目も意識した高校受験と同じ理由だった。

色々理由はあるが、受験へのモチベーションは正直低かった。

二学期が始まる頃、 ぽ村 は親御に「センター試験は学校の試験とは全く違う。学校の成績はちょっと落ちるけど勉強法変えるのを認めてくれ。」と頼んだ。
なぜそんなことイチイチ承認が必要なのかと言うと、学校の成績が小遣いに直結してたからだ。
受験勉強で低下した成績を理由に小遣いを減らされてはタマラン;という意味で理解を求める必要があった。

しかし「センター試験=共通一次試験」の認識が抜けてなかったのか、親御はその願いをトンチンカンな願いとして受け取ったようだ。
「学校の教科書さえ勉強してれば、センター試験の結果も上がる!」
と断言し、成績の低下を認めなかった。

小遣いを減らされては堪らないし、何より ぽ村 の成績はちょっと頑張れば推薦も狙える線だった。
つまりは推薦一本で絞れば、志望校やその1ランク下の大学くらいは入れるのでは?
そうしたら、受験勉強もあまりやらないで済むし…。

そんな甘い見通しを立てた。

実際、甘かった。
当時、大学の推薦入試は学校の成績のみならず、資格や学校での部活・役員活動重視にシフトしはじめていた。
 ぽ村 は文芸部の幽霊部員で、誘われた生徒会のオファーも蹴り、資格も英検三級も持っていない(持ってた資格は単位所得に必要だった硬筆検定三級くらいだぞ;)。

結果は二校とも撃沈。

その結果が解ったのが秋だった。
正直その時に浪人を覚悟したが、ちょうどTRPGのキャンペーンも終了していた為、
「もう遅いかもしれないけど、これから受験勉強に力入れよう…」

と、思ってた11月頃。

家に帰ると、ラノベやルールブックで埋まってた机の本棚がとてもスッキリしていた。
というか、全て無くなってた。
「勉強の邪魔になりそうだから、お前の好きなバカ小説は全部捨てておいたからな!」
直後に親父の罵声が飛んできた。

あああああ…

当時も今も、 ぽ村 は趣味の為に勉学や仕事に励んでいる。
大好きな趣味を続けるには、ソレが絶対必要条件だと信じてるからだ。

親御も親心でそういう行動に出たんだろうが、当時はかなり凹んだ。
あんなに頑張ったのに…。

以前のミニ四駆やマンガと違って、やましいこともせず、時間を取って繰り返し読んでたワケでもないのに。

「受験が終わるまでの一旦取り上げ」でもなく「問答無用の全廃棄」なのだ。
頑張ろうとしているのに、ヲレの趣味を全否定…。
ルールは無くなってかなり痛いが、ライトノベルなんか、一度読んだら二度三度とは滅多に読まない。
捨てられても内面的な実害は無かったが、自分の趣味を決め付けで否定されたのは厳しかった。


幸い、ソードワールドのルールブック類だけは別のカバンに入れていたのでキャンペーンの続行には支障が無かった(これがその後のルール偏重の一因かもしれない)。


しかし、自分が何で頑張ってたのか意味が解らなくなり、やる気もどんどん失せていく。


結果、頑張っても理解してくれないこの家に居たくないと思った。

実際に平日は予備校に行き、夕食か寝るときしか家に居ない。
休日も朝から予備校行くフリして友人宅やTRPGで遊ぶ日々が続く。
翌、95年に浪人しても、その生活・考え方は変わらなかった。

今でも、 ぽ村 は実家に帰っても家に居ることは少ない。
居場所や、 ぽ村 のモノが無いからだ。
実家に帰るには他に用事があるから帰り、そこで食事やネットの巡回をする以外に居ることは無い。
翌日はやることも無いので午前中にはマンションに帰る。
親御には感謝はしてるが、正直実家に居るのは苦痛だったりする。

…TRPGの中断はセンター試験まで。
そこからは高校も休みになる。
数ヶ月の猶予が出来る。
その間にTRPGのキャンペーンを一つでも終わらせられれば…。
冬に入る頃、心の中でそう決めた。

余談だが
親父が「バカ小説」呼ばわりして捨てた作品の中には『指輪物語』があった(まだ読んでなかったけどw)。
後年、親父がソレ原作の映画『ロードオブザリング』シリーズにハマって、激賞してたときに…(いや、こういうところがきっとヲレ嫌われてるのでスルーしてお願い;)


このことを機に、 ぽ村 はライトノベルを買わなくなった。
夢中になって読むことも無くなった。
TRPGのルールもかさばるとまた捨てられそうな気がして極力買わなくなった。
頑張っても頑張らなくても結果が同じな為、年明けから始めるTRPGや、激化する32bit機ハード戦争のTVゲームと、受験とは全く別のベクトルに熱意を集中し始める。

1995年(前)に続く。

1995年(前)

年の初めに阪神大震災とか起こった。
オウムが地下鉄でサリン撒いてスゴイことになった…というか、10年に一度あるか無いかの事件が前半で二つも起こって、それだけで年が過ぎた印象がある。

ぽ村 は高校を卒業し、目出度く浪人生になる。


厳密には前年の12月に始まったキャンペーン三作目は、元になった「LUNAR エターナルブルー」が凄くヲレ好み、かつキャンペーンシリーズの空気に合っていた。

PC達を完全に一新し、前作から時代を200年も飛ばし、それでいて気になるワードを設定にちりばめて…。
さらにTRPGとの齟齬を無くすべく「ラングッリサーⅡ」の話を転がし、PL数人の設定を融合したところとんでもないくらいに受けた。

と言うか、PLが5人以上いたキャンペーンでの盛り上がりは、後にも先にもコレが絶頂だったと思う。

大学受験絶望と言う現実からの逃避・不完全燃焼に終わった二作目のリベンジ・そしてこのキャンペーンを最後にひょっとしたら、しばらくどころかもうキャンペーンなんて打てないのでは?という焦りが、「キャンペーンを盛り上げる」という事に心血を注がせた。

キャンペーンの盛り上がりは、その甲斐あったというところだろう。

乗っていたPL達は頼んでも居ないのにPC達やNPC達のイラストを描いてくるし、世界設定までもっと深化して考えるようになった。
コチラの至らない点も好意的にフォローしてくれる。
遅刻常習犯もほとんど遅刻せず、中盤以降は「この登場人物(PC・NPC)達は本当にこのキャンペーンで終わりなのか?」「終わらせるのが勿体無い」という発言が相次いだ。

脚色でもなく、美化でもない。
それまで最高に受けていたキャンペーン1作目を、簡単に超えるほどの大受けだった。

しかし、話が盛り上がってるいるとは言え、物語重視のプレイ形態は前二作と変わることが無かった。

特にキャンペーン二作目の途中から、物語重視のプレイ形態に文句のありそうなPL2人は、うち1人のPCが死亡したことを機に2人ともキャンペーンから抜けてしまう。
そのうち1人は、グループに復帰することは無かった。

いくつかの救済策を提示しても、引き止めてもNOしか言わない2人に、ヲレも痺れを切らして離脱をおk。
「このキャンペーン終わったら、また呼ぶ」
と約束して二人は外れた。

そんな事態を、他のPL達はどう思っていたかと言うと…正直に言うと歓迎していた。
出て行った二人はどちらかと言うとプレイに非協力的だった。
PC1人が死亡した時も、他のPL達・GMが制止したのに単独行動を行い、結果ドジ踏んで死んでしまったのだ。

「やる気の無いヤツはやるな」
という大半のPL達の空気があったのかも知れないし、そういった空気を察して二人も出て行ったのかも知れない。

悪い言い方だが、厄介者二人が消えて、残ったPL達がテンションを上げ、キャンペーンはさらに盛り上がる。

学校は卒業式までほとんど休みになり、大学受験も二次試験は教科が少ない。
一応勉強はしていたが、センター試験の結果から合格をほとんど諦めていたヲレは、ずっとキャンペーンを盛り上げることばかりを考えていた。

そして、大学受験は全滅。
浪人生になることになった。
そんなことも構わず、予備校が始まるのは4月からだ、と残った期間をTRPGに費やした。

キャンペーン3作目の最終決戦時。
一軍級の戦力を持つNPCパーティがラスボス相手に全滅し、二軍級戦力のPC達がさらに強力になったラスボスに特攻。
奇跡のようなサイコロの目、なんでこう上手く劇的な方向に変化するのか解らないアドリブ、吼えまくるPL・PC達。
二度のラスボス撃破。
そして泣きながら笑顔でサヨナラのエンディング。

この三作目のキャンペーンはその後も長くPC達を続投させる続編や、リメイクを渇望されることになる。
ソレに乗り出すのは11年後だけど。

事実、GMである ぽ村 は得意顔だった。
「原点に戻り、原点を超えた」
と偉そうに嘯いた。

しかし一方で、このキャンペーンシリーズも、コレで終わろうと思った。
こんなに盛り上がったのだから、良い思い出のままで終わろう。

もう物語のネタも無い。

物語中心の話ではグループ内で好き嫌いが別れるようだ。
グループ内の亀裂になるのも好ましくない。

キャンペーン後、以前(キャンペーン途中)から要望があったのでちょっとしたその後の話を4つのシナリオで打つ事にした。
世界は救ったので、救われた世界の中で、秘宝を集めるシナリオ4つ。

各々のPCの続投は好きに判断させて(希望者は新しいキャラクターを作らせた)、抜けた二人にもキャンペーンが終わったことを打診したが、1人は全く復帰の意思を見せずにそのまま離脱した。

もう1人はシナリオの途中に復帰すると言ってきた。
1オフのシナリオだし途中からでも参加オッケーなので、みんなも復帰に同意した。

…が。
「新しいキャラクターを作る」と言うので、キャラクター案を聞いたところ…。
他のPC達の足を引っ張る気満々なキャラクターだった。

それを聞いた他のPL達は黙っていない。
復帰するとしたPLが帰った後、
「愉快そうなキャラクター案だが、また邪魔するつもりなら正直迷惑」
という趣旨の意見がポロポロ出た後、「この4つのシナリオを復帰前に終わらせよう」という話になった。

結果、1セッションで2シナリオ終わらせるという力技で、復帰するとしたPLの復帰前に終わった。
復帰するつもりだったPLは苦笑いしてたが、その本音はわからない。
彼は大学受験を理由に、5月から始まる次のキャンペーンに参加しなかった。

そもそもこうして、この時期の話を出すのもコレが初めてだったりする。

ちょうどその頃、4月に入って高校もとっくに卒業。
これから始まる浪人生活の為、予備校の準備や勉強の計画を立て始めていた。
TRPGも、GMという負担の大きい役割を封印して、遊べてもPLとして参加できれば…。
そう思っていた。

1995年(中)に続く

1995年(中)

四月から新しい予備校に入った。
学校終わって予備校…という、それまでの生活スタイルが大きく変わり、朝から夕方(その気になれば晩まで)まで予備校という浪人生活に入った。
勉強は「しなくちゃいけないもの」として認識していたが、イマイチモチベーションが上がらなかった。
理由は今でもよく解らない。
卒業前後の二ヶ月間、学校も無く好き放題に過ごしてたので、怠け癖がついてたかも知れない。


しかし、勉強を大きく阻害するものは残しておきたくなかった。
勉強に対して本気になったときに、足かせになってるのは避けたかったのだ。

キャンペーン三作目が終わって、物語重視のキャンペーンをやるにはもうネタが尽きていた。
事実、ネタ元だった「LUNAR」は二作目の「エターナルブルー」でほぼ完結(その後はリメイクを繰り返す)。
「ラングリッサー」は三作目が出るまでは96年を待たねばならず、しかもその三作目はTRPGに使えそうなネタは無かった。
それにココまで盛り上がったシリーズを「いい思い出」のまま終わらせたかったのも手伝って、日曜日に集会場に集まった際、
「この世界(世界設定はSWのを踏襲しつつ、歴史や地図はオリジナル…SWプレイヤー用語で言う「オレクラスト大陸」だった。)でのキャンペーンはもう終わり。またフツーの1オフシナリオに戻りたい。あと、ヲレもPLがしたい。」
という主旨の発言をした。

93年にこのキャンペーンシリーズが始まって以来、 ぽ村 がPLをやる回数は激減していた。
常にGM状態で、メンバーの1人はセッション以外でも ぽ村 を「GM」と呼ぶくらいだった。
加えて、GMは負担の大きい役割。
浪人生には厳しい話だ。
そしてこのキャンペーンの舞台となる世界設定は、ほとんど ぽ村 が組み上げたモノだった(パクリも多分にあるけど)。

つまり、
この世界で遊び続ける= ぽ村 のGM頻度が高いまま
という図式が成立するのだ。

それを避ける意味での「終わり」宣言だった。


即座にメンバー達から反発が来た。
「アレクラスト大陸(SWの公式設定の舞台)よりも、この2年間遊び続けたキャンペーン世界の方が愛着がある。理解度が高い。」
「オレもアレクラスト大陸の設定は知っているが、こっちの世界の方が奥深いし楽しめると思う」
「オラン(公式の冒険者の拠点になりやすい都市)より、アンゼル(キャンペーン舞台の冒険者の拠点になりやすい都市)の方が好きだ…。イタリアっぽいし、イメージも沸きやすい。」
「みんなが好きだって話(世界のこと)を変に終わらせると、やる気とかの問題になる。」

ヲレが意図したところの「有終の美なキャンペーン」だったはずのキャンペーンは、参加した他のメンバーにとって「次回作が期待できるキャンペーン」だった。

その評価の声は純粋に嬉しかったが、上記の理由で自分がGMをすることを何としても避けたかった。

ソードワールドのルールも長すぎる。
このままでは、ルール自体にメンバーが飽きてしまう。
そうなると「ルールを駆使して遊ぶ」というTRPGというゲームの醍醐味が消えてしまうことを意味していた。


色々交渉した結果、それまでのキャンペーンの世界で遊ぶことが決まった。


そして以下のことが取り決められる。

・ ぽ村 も含め、1セッションごとに複数のGMで持ち回りをする。
・同じ世界でも、別の大陸を自分達でデザインしソコを舞台にする(新しくデザインしたほうが、GM達の自由が利きやすいため)。
・基本的に1オフシナリオを続ける形のキャンペーンにする。
・持ち回りで当番じゃないGMは、PLとして参加する。NPCは自分のPCとして扱う。
・問題があったらGM同士で相談する。

 ぽ村 も加わってGMを…というのは大きな妥協だった。
一月に一度程度のGMなら、そう苦にもならないだろう。
物語型キャンペーンの要素も大きく取り除く。
これで前のキャンペーンで出て行った二人の復帰も見込める。
出て行った二人のメンバーのうち、一人はGm経験者だ。
グループ総勢で3人しか居ないGM経験者を復帰させるのは「持ち回りでGM」という構想に必要不可欠だった。

「新しいキャンペーンをやる。しかも1オフシナリオメインだ。良かったら復帰してほしい。」

と、出て行った二人のメンバーに打診した。

が。
二人の返答は「NO」だった。
一人は「結局ファイアーエムブレムの方が楽しい」
もう一人は「大学受験あるからTRPGは封印ってことで」
という理由だった。

しかし今考えると、自分達が見切った世界のキャンペーンでGMを…というのは虫が良い話だったかもしれない。

そうなると、残ったGM経験者は ぽ村 含め二名。
持ち回りということを考えれば、もう一人のGMほしいところだが…。

PL経験者しかないメンバー三人に要請したところ、二人が嫌がり、一人がかなりやる気満々で引き受けてくれた。

しかしそのメンバーは結構独特な趣味をしていたので、みんな一様に嫌な予感を感じた…と思う。
「GMは自分の趣味を全力でぶつけられる役割では無い」
と、注意して、予防線にリプレイ集やら、GMのHOW TO本を貸して読むようにお願いした。

そして、みんなで地図を作成し始める。
大陸の形は ぽ村 が、歴史もいくつかのパターンから「圧政を布いた帝国。そしてソレを革命で追放した英雄達が中心になって作った王国」の二つの国が存在するモノを選び、都市の位置を決め、その名前を決め…。
と、ワイワイしながらみんなで決めた。

さらにあまりキツキツに設定しすぎると、GM間でも理解度の差が出てくるので、細部はかなりスカスカに設定の穴を空けた。
そのほうが各GMの裁量で面白くなる…と思ったからだ。

思えば、このときがこのキャンペーンの中で一番楽しかったときだった。

一方、ルールの決定は最後まで揉める。
SWはもうルールブックさえ開かないほど習熟という名の解ってるフリが発生していた。
「鍵開け」「気配感知」「ワナ感知」「重量によるOOO」「範囲によるOOO」等各種の細かいルールもダンジョン攻略がメインのシナリオならとにかく、物語重視のシナリオ群にはかえって足枷なほど重すぎた。
種族による差も激しすぎて、グラスランナーなんかゴミ扱いだし、ドワーフは本当に死なない。
何より、最も大きなウェイトを占める戦闘のルールが重すぎて時間ばかりかかるのだ。

そこはむしろもっとシンプルに…種族の差も少ない方向で…と、ルール選定を始めるわけだが、残念ながら ぽ村 は前年にライトノベルと共にルールブックを大量に処分された後だった。

しかも、他にルールを持ってるメンバーはこのキャンペーンに参加しないと表明している。

仕方なく、シンプルで馴染み深い「ロードス島戦記(初代コンパニオン)」か「クリスタニア(コチラも初代コンパニオン)」を提案してみたが、「%のルールはなんかイヤ」というよく解らない理由でメンバー達に却下された。

「このままではなし崩しにSWになってしまう…。」

と危惧したヲレは、PCを制作する当日、二年ほど前まで「コズミックファンタジー」のキャンペーン等で永らくメインを張ったオリジナルルールを持ってくる。

そのキャラクターシートを配布したところ、数人が文句ありそうな顔をする。
「ルール変える必要、あんの?」
明らかに不満そうにPメンバー一人がそう口を開いた。
 ぽ村 が理由を述べようとしたところ、
「コレ要らない。ポイ」と、他のメンバーがキャラクターシートを放ってよこした。
そして奪うようにSWのキャラクターシートをファイルから持っていく(結構トラウマ)。

そして勝手にPC制作を始める。

置いてけぼりにされて、その様子を見ていたヲレは内心自分を説得していた。
オリジナルルールはみんなが嫌がったロードスと同じ%制だ。
他の持ち回りGM達もルールの習熟に問題があるかもしれない。
それなら、SWの方が良いじゃないか…?
ココで目くじら立てて場を荒らすより、みんなが望んだ世界で、みんなが望んだルールでやるのが、一番良いんじゃないか?と。


このときにルール変更に不満を表明したメンバーが、後年「 ぽ村 のTRPGはルールがSWばかりでツマラン」と発言してきたときにはちょっと殺意を覚えたが、ソレはまた後の話。

そしてPC制作も、新しい舞台の大陸の世界設定も終了し、4作目のキャンペーンが始まった。

1995年(後)に続く


タグ:TRPG 思ひで
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ぽ村

>CMnice!
商売に精が出るんですね。

by ぽ村 (2010-04-21 23:49) 

ぽ村

1988年をうp。
懐かしくてもう…
あの頃一緒にゲームをやった連中は今、何をしてるだろうか?
by ぽ村 (2010-05-02 15:47) 

ぽ村

1989年をうp。
これからも清濁交えて書いていきます。
by ぽ村 (2010-05-14 20:55) 

ぽ村

1990年(前)をうp
これで黎明期は終わり

(後)ではいよいよTRPGを遊び始めます

by ぽ村 (2010-05-25 01:37) 

ぽ村

1990年(中)をうp
予告してた(後)にならなくてスマン…

量がおさまらなくてな;
この時期は思い出多いんだ…
by ぽ村 (2010-06-12 03:30) 

ぽ村

1990年(後)をうp

ぽ村 が初めてGMやった話が入ってます。

by ぽ村 (2010-06-24 01:31) 

ぽ村

細かい事思い出したので90年(後)に追記。
当時遊んだルール・そしてアバウトなプレイ環境が載っていますw
by ぽ村 (2010-06-28 03:01) 

ぽ村

1991年(前)を投下

湾岸戦争が始まった頃の ぽ村 の周囲です。
by ぽ村 (2010-07-08 02:35) 

ぽ村

1991年(後)をうp

その後のグループメンバーのほとんど(というより、ほぼ全員)が登場します
by ぽ村 (2010-07-22 14:48) 

ぽ村

1991年(後)をうp
…前のコメントは1991年(中)だぁね;

スマぬ
by ぽ村 (2010-08-20 01:06) 

ぽ村

1992年(前)をアップ。

高校生になった…が…
趣味も学校も不完全燃焼をおこします。
by ぽ村 (2010-09-17 17:02) 

ぽ村

1992年(後)をうp

92年後半、場所を失う…というTRPG最大の弱点が露見します。
by ぽ村 (2010-10-12 17:32) 

ぽ村

1993年(前)をうp。
環境的に苦難の歴史…な時期です。

内部崩壊は数年先ですが。。
by ぽ村 (2010-11-07 21:54) 

ぽ村

1993年(中)をうp
結局3つに分かれました;

この時期から「グループ拡大期(後期)」に入ります。
この頃から1995年5月までは趣味的には蜜月だったかも知れません。

そして、いよいよグループを大きく変える…変え続けたキャンペーンシリーズが始まります。

このシリーズはグループを1999年まで、 ぽ村 の趣味としてのTRPGを2008年まで…と長期間に渡って支え続けます。
そして、同時にグループや趣味としてのポジション崩壊の原因にもなりました。
by ぽ村 (2010-11-19 04:00) 

ぽ村

1993年(後)をうp。

…年度内には完結できるんだろうかコレ;
by ぽ村 (2010-12-02 02:39) 

ぽ村

1994年(前)をうp。

この頃から結構大きな代償を払い始めます。

by ぽ村 (2010-12-31 20:48) 

ぽ村

1994年(後)をうp。

次回1995年は激動の年になります。
by ぽ村 (2011-01-12 02:32) 

ぽ村

・1995年(前)をうp。
蜜月最後のキャンペーンは、大成功に終わります…が、次回グループはその後崩壊の遠因となる大きな亀裂が発生します。
by ぽ村 (2011-02-01 03:42) 

ぽ村

・1995(中)をうp

グループ内に亀裂が入るところまで書けなかった;
次回1995年(後)は天国から地獄状態に…;

そして色々あってグループは縮小期に入ります。
by ぽ村 (2011-02-16 20:35) 

ぽ村

キリよくするする為に1995(中)の追記。

そろそろ呪詛がかってきます。
by ぽ村 (2011-02-22 11:50) 

ぽ村

・1995年(後)をうp…しようとしら、記事の文字数(50000字)制限にかかってしまった…

まさかまさかの二周目の記事決定;

っつか、三周目も覚悟だろこれ;
by ぽ村 (2011-02-26 21:03) 

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